下田市
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縄文時代:多くの遺跡により、早い時期から人が住んでいたことが分かる。

縄文時代早期:須崎爪木崎遺跡、田牛上の原遺跡など、海岸に隣接する海岸段丘上に存在することが多い。

縄文時代中期:吉佐美田京山遺跡、柿崎上ノ山遺跡群、河内湯原遺跡、椎原宮の前遺跡など遺跡数が多く、また、大きな集落が営まれていたことが推定される。


古墳時代

4世紀頃:吉佐美広畑遺跡。

5世紀頃:祭祀遺跡 - 白浜三穂ヶ崎遺跡、須崎夷島遺跡、吉佐美洗田遺跡。


律令時代

680年駿河国二郡が分離され、伊豆国が誕生する。

686年大津皇子の謀反事件に連座した帳内礦杵道作が市内箕作に流されたといわれる。

701年:伊豆国に、田方、那賀、賀茂の3郡が置かれる。賀茂郡家が南伊豆町下賀茂辺に設置され、賀茂、築間、色日、稲梓、川津、三島などのがあった。

735年:伊豆国賀茂郡稲梓郷稲梓里の占部石麻呂が調の麁堅魚を貢納する(平城京出土木簡)。

9世紀中頃:稲梓郷は大社郷に改称。

10世紀:色日郷は月間郷と合併。

10 - 11世紀:金山遺跡 - 砂鉄木炭を原料にタタラ製鉄が行われた跡。

鎌倉時代から室町時代まで

1180年源頼朝が、平家打倒のため、韮山で挙兵。

1334年:現在、河内の重福院にある宝篋印塔静岡県指定文化財)が建立される。

1399年:「下田村若宮」と刻まれた鰐口が、下田八幡神社に奉納される。「下田」の地名が出てくる最初の例。

1498年:伊勢新九郎(北条早雲)、深根城に立て篭もる足利茶々丸、関戸吉信を滅ぼす。

戦国時代から江戸時代まで

1588年後北条氏下田城を築き、清水康英を城主とする。

1590年豊臣秀吉小田原攻めにより、下田城攻防戦。4月末に、落城。徳川家康麾下の戸田忠次が下田城主となる。

1601年戸田忠次の子、戸田尊次三河に移封。下田、天領となる。

1616年:今村彦兵衛正勝、初代下田奉行。須崎に遠見番所を置く。

1623年:遠見番所、大浦に移転。

1636年:遠見番所を改築して船改番所とし、上下の廻船を検問。入津廻船3千艘といわれ繁栄した。

1645年:2代目下田奉行、今村伝四郎正長、自俸を投じて武が浜に浪除堤を普請。

1664年:3代目下田奉行、石野八兵衛、大浦切通しを開削。

1668年:4代目下田奉行、今村伝三郎、町内の水道敷設。

1683年:6代目下田奉行、服部久右衛門、井戸水に切り替え、水道木管を辻の木戸とする。

1688年日向佐土原藩の御手船「日向丸」、漂着。御用材投棄の責任を取り、乗組員16名が全員切腹。(大安寺に「薩摩十六烈士の墓」がある。)

1721年:御番所が浦賀に移転。下田奉行が廃止され、浦賀奉行所支配の浦方御用所が置かれる。

1727年:餓人2,151人を出し、1人宛荒麦3号60日分の夫食の救済を仰ぐ。

1755年白浜村の三之助がルソンに漂流後、中国から長崎に送還。その後、同様に下田の清次郎等4名も帰国。

1793年老中松平定信が海防検分のため、伊豆を巡見。

1815年:専修念仏行者徳本が、巡錫。稲田寺、海善寺で説教。

1815年:南京船「永茂」が漂着(翌年、長崎に出航)。

1836年:下田町にうちこわし騒動、25人逮捕。

1842年下田奉行、再置。

1843年:幕府、洲佐里崎と狼煙崎に御台場を築く。沼津藩も三穂ヶ崎に御台場を築く。

1844年:幕府、洲佐里崎と狼煙崎の御台場廃止。下田奉行所廃止。

幕末下田での上陸『ペリー提督・日本遠征記』ペリー軍隊分列式の図・了仙寺『ペリー提督・日本遠征記』ペリー来航記念碑

1849年:英艦マリーナ号入港、海辺一帯の測量強行。韮山代官江川英龍が兵40余人と大筒小銃を携えて到着し退去させる。

1853年:米使マシュー・ペリー浦賀に来航、開国を求める。高馬にて反射炉の築造に着手するが、泥酔した米兵が敷地内に侵入するできごとがあったため、高馬での築造を中止。翌年、韮山にて改めて築造する。

1854年3月:日米和親条約神奈川で調印。下田が箱館とともに開港。米使ペリー提督艦隊が下田に入港。下田奉行設置。吉田松陰金子重輔、米艦での密航を企てる。5月、下田条約了仙寺で調印。10月、露使エフィム・プチャーチンディアナ号で下田に入港。11月、安政東海地震による大津波で、下田町は壊滅的な被害を受ける。ディアナ号大破。12月、日露和親条約、長楽寺で調印。

1855年:プチャーチン、戸田で建造したヘダ号で帰国。中村に、下田奉行所屋敷が建てられる。

1856年タウンゼント・ハリス、日本最初の米国総領事として玉泉寺に着任。

1857年斎藤きち、タウンゼント・ハリスに仕えるが3夜で解雇。タウンゼント・ハリス、陸路、江戸に向かい、通商条約締結の談判開始。

1858年日米修好通商条約、神奈川小柴沖ポーハタン号上で調印(オランダ、ロシア、イギリス、フランスも続いて調印)。英国使節エルギン伯爵ジェイムズ・ブルース搭乗の英蒸気船艦隊下田入港。

1859年6月:横浜港開港。玉泉寺の領事館閉鎖。タウンゼント・ハリス公使となり、江戸善福寺[要曖昧さ回避]に移る。12月、下田閉港。

1860年下田奉行廃止。

1861年ヘンリー・ヒュースケン、芝赤羽で攘夷派に襲われ死亡。

1862年4月:タウンゼント・ハリス帰国。

1863年:第14代将軍徳川家茂、海路で上洛途中、西風に阻まれ下田の海善寺に止宿。

1864年御蔵島に座礁した米船「ヴァイキング号」乗組員や広東人乗員460人が下田に送られる。

明治期18が町村制施行時の下田町。
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