太平洋戦争開戦時には陸軍大学校長の職にあった。その後、第13軍司令官、西部軍司令官を経て、北支那方面軍司令官に就任し、そのまま終戦を迎える。終戦を受けて下村は鎌田銓一第2野戦鉄道司令官(中将)の自決を思い留まらせ、「君は直ちに日本へ戻り、進駐軍先遣隊を接遇せよ」と下命し、鎌田に終戦処理のための任務を与えたという[1]。
陸士同期・東久邇宮稔彦王が首相に就任したことを受け、東久邇宮内閣で陸軍大臣に就任する。但し下村は北支那方面軍司令官として満州に駐在していてすぐに帰朝出来なかった為、下村が帰朝するまでの間は東久邇宮首相が陸軍大臣を兼摂した。続く幣原喜重郎内閣でも留任し、日本陸軍(帝国陸軍)で最後の陸軍大臣となった。
公職追放を経て[2]、追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[3]。追放解除後の1955年に防衛庁顧問に就任[4] し、1959年の第5回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬、当選し参議院議員を1期務めた。その後、第7回参議院議員通常選挙全国区にも出馬したが落選した。 娘は俳優座で女優、演出家を務めた河内節子(下村節子)[5]。映画ライターの下村健[6]、俳優の河内浩は孫(節子の息子)[7]。
親族
年譜第1回御前会議(1938年(昭和13年)1月11日)の様子。写真右から1人目が参謀本部作戦部長下村定少将。昭和18年制式の軍服を着用した下村
1908年(明治41年)
5月 陸軍士官学校卒業。
12月 砲兵少尉。野砲兵第14聯隊
1911年(明治44年)12月 砲兵中尉。
1916年(大正5年)11月 陸軍大学校卒業。
1917年(大正6年)10月 参謀本部附。
1918年(大正7年)7月 砲兵大尉。参謀本部々員。
1919年(大正8年)3月 フランス駐在武官。
1921年(大正11年)9月 参謀本部々員(作戦課参謀)。
1922年(大正12年)8月 砲兵少佐。
1924年(大正14年)8月 野砲兵第7聯隊大隊長。
1925年(大正15年)8月 陸軍大学校教官。
1927年(昭和2年)6月 ジュネーブ海軍軍縮会議委員。
1928年(昭和3年)
1月 参謀本部附仰付(フランス・ドイツ派遣)
3月 砲兵中佐。
1930年(昭和5年)8月 参謀本部々員。
1931年(昭和6年)
4月 兵本附(国連軍縮準備委員会幹事)。
8月 砲兵大佐。
12月 ジュネーブ軍縮会議全権随員。
1933年(昭和8年)12月 野戦重砲兵第1聯隊長
1935年(昭和10年)
3月 関東軍高級参謀・第1課長。
12月 陸軍大学校研究部主事。
1936年(昭和11年)
3月 少将。
8月 参謀本部第4部長。
1937年(昭和12年)9月 参謀本部第1部長。
1938年(昭和13年)
1月 参謀本部附。
9月 東京湾要塞司令官。
1939年(昭和14年)3月 中将。
1940年(昭和15年)8月 陸軍砲工学校長。
1941年(昭和16年)9月 陸軍大学校長。