下山定則
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静岡中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した[1][注釈 1]。三高時代には@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}稚内から[疑問点ノート]鹿児島まで駅名を暗唱して友人から「鉄道」というあだ名をつけられた[2]喫煙者である。

1925年東京帝国大学工学部機械工学科を卒業した後は鉄道省に入り、企画院技師、技術院第4部長、鉄道総局業務局長補佐(1945年1月-)。後に新幹線プロジェクトのリーダーとなる島秀雄とは学生時代からの親友。鉄道省でも運輸畑と技術畑を繋ぐ役割をしていた。1936年から翌年まで島とともにヨーロッパから南アフリカ南米北米を視察している。
国鉄総裁へ[ソースを編集]

第二次世界大戦後の連合国による占領下では、名古屋鉄道局長(1945年9月-)、東京鉄道局長(1946年3月-)を歴任。その後、1948年4月運輸次官に就任。

翌1949年6月1日日本国有鉄道(国鉄)が発足して初代総裁に就任した。初代総裁には、参議院議員近畿日本鉄道社長だった村上義一や元阪急電鉄社長の小林一三らの候補が挙がったが、結局内部からの起用となった。
「下山事件」[ソースを編集]事件現場近くにある慰霊碑

7月1日には、国鉄発足前日に成立した行政機関職員定員法に基づき、空前絶後の職員約10万人の解雇を決定、同4日には組合側に、第一次整理の3万700人を通告した。

しかし、翌5日に三越日本橋本店に入った後に消息を絶ち、捜索願いが出されたが6日未明に、東京都足立区常磐線東武伊勢崎線が交差する付近で、轢死体となって発見された[3]。行方不明および死亡の理由は不明であり自殺説、他殺説両方が飛び交った。なお、下山の死を受けて副総裁の加賀山之雄が総裁代行に就任し、同年9月24日に正式に総裁となった。墓所は多磨霊園(21-1-16-6)詳細は「下山事件」を参照
家族[ソースを編集]

父は地方裁判所の所長を歴任した下山英五郎。兄英種は銀行員、弟常夫は東京市職員であった。

妻との間に4男あり。長男定彦は後に国鉄職員となり、子会社のアド・メディアセンターの社長になった。次男俊次は電源開発に入社し日本原子力発電の役員となった。三男健三は三菱電機の役員、四男博也は東京海上火災保険の役員となった。
演じた俳優 [ソースを編集]

小林桂樹 - 『土曜ドラマ戦後史実録シリーズ 空白の900分 -国鉄総裁怪死事件-(前・後編)』(1980年、NHK)

脚注[ソースを編集][脚注の使い方]^ 高校野球名門校シリーズ8 『静岡高校野球部 誇り高き文武両道 Since1896』85ページ。
^ 高橋団吉『島秀雄の世界旅行』技術評論社(2009年)ISBN 9784774135694[要ページ番号]
^ “下山事件の現場(東京・足立) 「黒い霧」今も晴れず”. 日本経済新聞 (2018年12月22日). 2020年7月4日閲覧。

注釈[ソースを編集]^ 静岡中学34回同期に、作曲家の大木正夫拓殖大学理事長狩野敏、後の陸上幕僚監部衛生監陸将金原節三慶應義塾大学経済学部長を務めた寺尾琢磨

関連項目[ソースを編集]

国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ) - 下山から見て次代の国鉄総裁である加賀山之雄は球団創設時に、「鉄道マンは鉄道自殺をしない」という験(げん)によって下山定則の他殺説を報じた読売主導のセ・リーグへの加盟申請をさせている。

外部リンク[ソースを編集]

下山定則 とは - コトバンク

歴史が眠る多磨霊園 下山定則










日本国有鉄道総裁


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