下克上
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浅井氏による江北の支配も、形式的には当初は京極氏を推戴する「主君押込め」であり、後に京極氏が追放されるのは、京極氏による支配権奪還の失敗、つまり京極氏が「上剋下」を行おうとした事への反撃であった。前述の後北条氏の下剋上も、上剋下への反撃としての主君押込めの事例も見られる。

なお、昭和時代大日本帝国陸軍において、正規の指揮系統が軽んじられ、いわゆる青年将校参謀などがしばしば越権的にクーデターを行使した風潮も下克上と呼ばれる。
下克上の一覧

下克上をした者下克上をされた者事件年備考
朝倉氏景斯波義孝1482年父の孝景が「越前守護職」を確約に、応仁の乱で西軍であった斯波氏の主君を棄てて東軍に鞍替え。
朝倉の鞍替えにより応仁の乱は東軍が圧倒的優位となり、その権威を背景に、斯波義俊を名目上の主君として擁立した上で他の斯波家の有力家臣を越前国外に追い落とし、朝倉氏は越前を実効支配し領国化。
尼子経久京極政経1482年尼子経久は京極氏の一門である。
細川政元足利義材明応の政変1493年足利義澄を擁立。
長尾為景上杉房能1508年
今川氏親吉良義堯1517年今川氏は長く駿河守護を務め、吉良氏三河遠江の一部を支配する小領主に過ぎないが、御一家吉良氏の分家である今川氏は吉良氏を本家として仰ぐ立場にあった。しかし、この年、今川氏親は敵対する遠江守護斯波義達に味方した吉良義堯から浜松荘曳馬城を奪って遠江全域を制圧、吉良氏を屈服に追い込んだ。
浦上村宗赤松義村1517年
毛利元就武田元繁有田中井手の戦い1517年安芸国人の毛利元就が、安芸守護の武田元繁を打ち破った戦いだが、仕掛けたのは武田。
また当時の毛利・武田は大内氏に臣従する立場であり、大内氏に対する武田氏の下克上の失敗とも解釈できる。
神保慶宗畠山尚順1519年
浅井亮政京極高清1523年名目上は京極氏が近江守護であり続け、完全追放は京極高吉の代。
島津忠良島津宗家1526年
木沢長政畠山義堯天文の乱1532年
遊佐長教畠山稙長1534年
斎藤道三土岐頼芸1541年美濃追放後の頼芸は、晩年には美濃に帰参している。
三好長慶細川晴元1548年
横瀬成繁岩松氏純1548年
壬生綱房宇都宮広綱1549年
陶晴賢大内義隆大寧寺の変1551年大内義長を迎えて主君として推戴。
織田信長織田信友1554年
織田信長斯波義銀1557年
龍造寺隆信少弐冬尚1559年
宇喜多直家浦上宗景1561年
三好義継
三好三人衆
松永久通足利義輝永禄の変1565年義輝を殺害、足利義栄を擁立。
徳川家康今川氏真1569年家康が武田信玄と事実上の共闘をした結果、今川家の最大統治領域の過半を奪取した。
織田信長足利義昭1573年室町幕府の滅亡
長宗我部元親一条兼定1574年一条兼定が家臣団による主君押込で追放された事件だが、事実上は長宗我部元親土佐を統一。
一条兼定は翌1575年天正3年)に四万十川の戦いで旧領回復を図るも敗北。
明智光秀織田信長本能寺の変1582年織田信長信忠父子を殺害、織田政權の滅亡
羽柴秀吉織田家清洲会議1582年織田家当主であった織田信忠の横死に伴い、後継者を定める重臣会議であったが、
成人している信忠の弟である織田信雄織田信孝を差し置いて幼い三法師を後継にするよう、秀吉が誘導した(ただし、信長・信忠存命中に決まっていたとする説もある)。
三法師を立てる建前ながら、秀吉が実権を掌握した。
鍋島直茂勝茂龍造寺高房鍋島騒動1607年鍋島父子に藩の実権を握られた高房が、憤慨の上自決龍造寺一門は勝茂を藩主に推したため江戸幕府も承認。

脚注[脚注の使い方]
出典^ 長谷川成一 「戦国末期の津軽地方について : 鉄砲と材木を通じてみた」 『北奥文化』15 北奥文化研究会、1994年10月、3頁。
^ 久保賢司「〈戦国〉期 上克下論」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院2012年ISBN 978-4-87294-740-3

関連項目

主君押込

番狂わせ

謀反謀叛反乱革命クーデター

幕末倒幕脱藩

バビロン捕囚アッシリア捕囚

王殺し国王弑逆 - ヨーロッパでは、王権神授によって王は神から認められた権利とされ、余程の事が無い限り王を殺すことは大罪であった。


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