広域地名としては浅草とともに上野・浅草副都心を形成する、上野駅を中心とする一帯の地域を指す。ここでいう上野エリアは、台東区上野・北上野・東上野・上野公園などからなり、日本最初の公園である上野恩賜公園(上野公園)や、デパートや飲食店などが集まる繁華街、喫茶店発祥の地を地域内に持つ。山手線の繁華街の中でも下町的な雰囲気を残す。上野駅から御徒町駅にかけて、全国的に著名なふアメヤ横丁(通称:アメ横)が位置している。上野公園南側の上野仲町通は歓楽街的な雰囲気をもつ。また上野は戦前から男娼が集まったゲイ・タウンとしても知られる。
上野駅は東京でも屈指のターミナル駅であり、かつては北関東や東北地方などの寝台優等列車や新幹線の起点として、東京の「北の玄関口」の機能を果たしていた。
上野公園は東京国立博物館や国立西洋美術館、東京都美術館などの博物館や美術館が日本で最も集積した地域であり、また東京芸術大学や東京大学(所在地としては文京区本郷)も近くにあるため「文化・芸術・学問」の街としての性格をもつ。他にも上野公園内には日本最古の動物園である上野動物園が位置しており、国内外から多くの観光客を集める。
和文通話表で、「う」を送る際に「上野のウ」という。詳細は「上野恩賜公園」を参照「ゲイ・タウン#上野・浅草」も参照 下谷地域の南部に位置し、千代田区(外神田)・文京区(湯島)との区境に当たる。 地形は、上野恩賜公園のある上野山が北区の方面から伸びる上野台地(武蔵野台地の分脈)の先端部分に当たる。下谷地域に属する。正確には台地である上野山は標高20mほどの高さを持ち、上野の街は上野山の東と南に開けている。上野台地の西には東京大学の位置する文京区の本郷台地があり、上野公園西南部にある不忍池はもともと両台地の間の谷(谷中・根津)を流れてきた谷田川(藍染川)が流れ込む場所に自然に形成された池である。現在では谷田川は地表から消滅し、不忍池も面積を縮小させている。 戦国時代には『小田原衆所領役帳』に江戸上野という記述が見られ、北条領であった。 上野山は、戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、元々江戸においては人口の少ない地域であった。 1603年に江戸幕府が開かれた頃、忍岡には、伊賀国上野(現・三重県伊賀市)を本拠地とする外様大名・藤堂高虎の屋敷が置かれた。 後に徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開けた。この頃から、寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになる。これは、藤堂家の所領である上野(三重県伊賀市)に地形が似ていたためと言われている。寛永寺には歴代将軍の墓も建てられ、江戸幕府から保護されたので繁栄し、それに伴って門前町の上野も発展した。上野寛永寺は、江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、京都の延暦寺(京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護の寺でもあった。地名発祥の三重県伊賀市上野は、現在は「伊賀上野」と呼ばれることが多い。 明暦の大火後には上野に広小路が設置された。ただし、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸時代には「下谷広小路」と呼ばれていた。 1868年に新政府軍と彰義隊による上野戦争で寛永寺が焼失し、その跡地が上野公園となった。その後、東京市15区6郡制の下で、上野公園とかつての門前町は下谷区に編入される。 1883年の上野駅開業後には、上野駅が東北本線の始発駅となったことから、東京の北の玄関口の役割を担うようになり、街も発展した。1947年に東京都の区が23区に再編されると、下谷区と浅草区が合併し、台東区となるとその一部となり、現在に至っている。 第二次世界大戦後、戦災や外地からの引揚げなどで行き場を失ったホームレスや戦災孤児が多数、駅の地下街や周辺で寝起きするようになった[4]。
地理
歴史
戦国時代
江戸時代1752年の地図上の不忍池(中央上やや右)。シュリ
明治時代以後
第二次世界大戦後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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