上野戦争
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注釈^ 題には『本能寺合戦の図』とあるが、実際は上野寛永寺の戦闘を描いている。姿の兵(左側)が彰義隊、洋装の兵(右側)が官軍。なお、赤熊(しゃぐま)は土佐藩の兵士。
^ 慶応4年4月29日(1868年6月19日)、勝は日記に「此頃彰義隊の者等、頻に遊説し、其倍多く、一時の浮噪軽挙をとし、官兵を殺害し、東臺に屯集殆ど四千人に及ぶ、其然るべからざるを以て、頭取已下に説諭すれども、敢て是を用ひず、虚勢を張て、以て群衆を惑動す、或は陸奥同盟一致して、大挙を待と唱へ、或は 法親王奉戴して、義挙あらむと云、無稽にして無着落を思はず、有司もまた同ずる者あり、甚敷は 君上の御内意なりとして、加入勸むる者あり、是を非といふ者は、虚勢を示して劫さむとす」と記して彰義隊を厳しく非難し、彰義隊が「陸奥同盟」と一緒に新政府に反乱を起こす企てや、輪王寺宮を奉戴してクーデターを企図していることなどにも非常に批判的であった[1]
^ 慶応4年5月7日(1868年6月26日)午後だけで以下の3事件が起きたことが『復古記』に記載されている。

同夕方、根岸付近で薩摩藩兵3人が彰義隊士8人?9人と遭遇し、彰義隊の屯所へ連行されるのを拒否して戦闘になり、薩摩藩兵1人が斬殺されたが、彰義隊士2人を討ち果たし、6人に手傷を負わせた。彰義隊の応援が大勢駆け付ける中、残った薩摩藩兵2人は囲みを掻い潜って駒込大観音の前まで辿り着いたが、深手を負っており追手が迫っていたので、薩摩藩兵1人が切腹し、もう1人の藩兵も切腹しようとしている所を彰義隊士に鉄砲射殺された。


同夜、尾張藩足軽1人が私用で四谷付近へ出掛けたが、10人ほどの徳川家家臣に襲撃されて手傷を負った。


同午後6時ごろ、体調不良で隊列から遅れた肥前藩士2人が、上野北大門町駕籠に乗って通りかかったところ、突如80人ほどの何者か分からない集団に斬りかかられ、止むを得ず応戦したが、肥前藩士1人が斬殺され、もう1人の藩士は深手を負って午後9時ごろに藩邸へ辿り着いた[2]

^ a b 徳川家霊廟上野東照宮上野大仏殿、清水観音堂、五重塔、弁天堂、書院、黒門(旧本坊表門)、時の鐘などは、上野戦争での焼亡を免れた。
^ 慶応4年5月15日(1868年7月4日)、勝は日記に「昨夜服部筑前 法親王へ可申上旨にて出張 覚王院に逢ふて、屯士離散せしめ、無事を計らふべき旨説諭す、然れども此僧かつて聞入れず、反て云、兵何ぞ霊地に兵を進む哉、徳川氏其他の御処置御遅延して、今日猶御決定なきは、此英士の猛勢あるがゆへなり、如斯にして猶数日を経ば、東奥軍兵駈参し、天下悉く應ぜむ歟、諸有司無略、恐懼して以て恭順を表とするもの、敵の術中に陥り、社稷をして滅亡せしむるに過ぎざるべし抔、暴言忌諱する所なく、説辯施す事能はずと云、」と記し、14日夜に服部が義観と面会し、寛永寺の旧幕府軍の解散を説得したが、逆に義観は反論し、徳川宗家の新たな石高領地や慶喜の処分などを新政府がなかなか決定・発表できないのは、寛永寺の彰義隊の反発を恐れているからであり、このまま数日も経てば奥羽越列藩同盟の援軍がやって来て、日本全国がこれに呼応するなどと暴論を言い、説得に応じる見込みが無かったことを書いた。また同じ文章の後半では、旧幕府軍の誠忠隊・純忠隊・靖兵隊などの諸隊の名を挙げ、寺院や空き屋敷に集まって口先だけ忠義を唱えつつ、刀を持って江戸の街中を歩き回り、軍用という名目で米や金を掠奪し、官軍の江戸入り後は関東近郊や東北へ転戦し、君主や上官の命令を聞かず、ついに徳川家歴代の菩提寺の寛永寺に災いを与えることを顧みなかったと非難し、君主に忠義を尽くす者は自ら誠忠や純忠とは名乗らないなどとして、彼らの忠義を否定している[3]

出典^ 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』144?145頁 「海舟日記」閏4月29日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:昭和3年(1928年)11月5日) (2018年10月8日閲覧。)
^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第十冊』110頁?112頁 復古外記 東海道戦記 第二十六 明治元年5月8日 「薩摩尾張肥前三藩、書ヲ大総督府ニ上リテ、藩兵、彰義隊ノスル所ト爲リシ状ヲ申ス。」 (編著者:太政官、豊原資清 出版者:内外書籍 発行:昭和4年(1929年)9月15日) (2018年10月12日閲覧。)
^ 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』146?147頁 「海舟日記」 慶応4年5月15日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:昭和3年(1928年)11月5日) (2018年10月12日閲覧。)
^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第十一冊』1頁?17頁 復古外記 東叡山戦記 第一 明治元年5月13日 (編著者:太政官、長松幹、龍三瓦 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)3月8日) (2018年10月12日閲覧。)
^ “官軍兵士軍服 付 外套・シャツ - 港区の文化保護目録 。港区立郷土歴史館”. www.minato-rekishi.com. 2021年7月6日閲覧。

題材とした作品

てなもんや三度笠朝日放送)第255話「上野の戦争」(1967年3月19日放送)放送2日前にABCホールで行われた公開収録では、収録時におよそ2トンもの火薬を使用。収録中のカメラがぶれたりするなど、迫真の合戦シーンを盛り上げた。

合葬杉浦日向子

福沢諭吉東映

陽だまりの樹手塚治虫

参考文献

歴史群像シリーズ特別編集「決定版図説・幕末 戊辰 西南戦争」、学研、2006年

大山柏 『戊辰役戦史(上)』時事通信社 1968年12月1日刊行

『三百藩戊辰戦争事典 下』新人物往来社 2000年
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