上野城
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同年8月、伊予宇和島城から築城の名手とされる藤堂高虎が伊賀に入国した。大坂城に対抗する以外にも、大和・紀伊を抑えるためにも高虎の力が必要となったと思われている。高虎は慶長16年(1611年)正月より、上野城を大幅な改修に着手、大坂方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそいだ。

「本城の西の空地を築挙げ広め、西に幅十五間の深溝を掘り、高さ根石より十五間の高塁、南北押廻して百八十六間の石塁を築き、南北の両隅に櫓台を制し、是までの本城と合せて新に本丸とし、南面にして南北に二口を開く南側の東西百三十間とし、北側の東西百三十一間とす。東側は乾堀共旧きを用い、西側は幾度新に南北百三十九間とす。比高塁摂坂の城塁より見事なり」(『公室年譜略』)としている。この「摂坂の城」とは豊臣時代の大坂城のことを指しており、高石垣の規模の大きさを物語っている。南側を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を構築した。天守の位置を西側に移動し、今治城天守を移築しようとしたが、天下普請となった丹波亀山城に献上したため新規に5層天守を建設した。筒井時代は、上野城は大坂城を守る出城としての機能を持った城であったのに対して、藤堂時代は大坂城を攻めるための城というまったく正反対の立場をとった城とされている。

東西十三、南北十一間、高さ五間の天守台を築いた。天守閣の建設は五人の大工棟梁の分担工事とし、互いを競わすなどされていたが、完成をひかえた慶長17年(1612年)9月2日、大嵐のため三層目が西南に吹き倒れ、その上に五層目が落ち天守は倒壊した。大工や人夫合せて約180名が倒死、また多数の怪我人をだした。

慶長19年(1614年)、元和元年(1615年)の2度に渡る大坂の陣で家康の勝利となり、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなり天守は再建されなかった。本丸には建てられなかったが、外堀の土塁上には、二層櫓が二棟、単層櫓が八棟、計十棟の櫓が建てられ、長さ二十一間、両袖に七間の多聞櫓をつけた東大手門、西大手門も建てられた。高虎は大坂の陣が終わった後、交通の便利がいい津城を本城とし、上野城を支城とした。

一国一城令で上野城は伊賀の城として存続が認められると、高虎は弟の藤堂高清を城代とし、高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政8年(1825年)に藤堂高猷が最後の城主となるまで藤堂氏世襲とした。

上野城絵図/個人蔵

上野城絵図の部分図/個人蔵

二之丸櫓図/個人蔵

菱櫓図/個人蔵

近現代

1869年(明治2年) - 版籍奉還明治維新後、廃城令によって廃城処分とされ、他の城と同様に伊賀上野城も石垣上の構造物の多くが取り壊された。

1873年(明治7年) - 博覧会開催後、太鼓櫓、下之段米蔵が民間に払い下げになった。

東大手門を中心に、三重県庁上野支庁と第三警備駐屯所が置かれた。

1887年(明治20年) - 東大手門が解体。

1896年(明治29年) - 伊賀出身の実業家田中善助が、城周辺の整備を行って公園として住民の憩いの空間とした。

1907年(明治40年) - 西大手門が解体。

1935年(昭和10年) - 衆議院議員であった川崎克の尽力により復興天守が建設される。

1967年(昭和42年)12月27日 - 国の史跡に指定される。

1980年(昭和55年) - 4月に公開された映画影武者』の撮影現場として用いられた。

2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(47番)に選定された。

2011年(平成23年)9月1日-11月30日 - 築城400年祭が行われた[3]

2021年(令和3年)4月8日 - 東京オリンピックの聖火リレーの三重県区間第2日目のスタート地点となる[4]。第1走者を務めたのは鳥羽一郎であった[4]

城郭伊賀上野城と周辺地域の空中写真/国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成上野城下町絵図(伊賀市指定有形文化財)/個人蔵

藤堂高虎が大規模に改修した時は、大坂城の備えとして西側の防備を固めた。これは、徳川家康が不利となった場合、この城で籠城する時に備えて、相当数の兵員を収容できるよう、細部の完備や美観を整えるより実戦本意に配慮した。藤堂高虎は伊賀忍者に命じ、58カ国、148城を密かに忍ばせ要害図を盗写させ、伊賀上野城を改修の参考にしたという伝承が残っている。

筒井定次時代の城を取り込み、大きさも約3倍となり7千に拡張した。筒井定次時代の本丸の西を拡張し、旧本丸と合せて新本丸とした。本丸の南には広大な外郭をつくり二ノ丸と呼ばれていたが、次第に名称も変わり東の高台と通称するようになった。東側の外堀は218間、堀幅12間、南側は488間、堀幅15間、西側は254間、堀幅12間、北側が17間、北の山下の土塁と堀は筒井氏時代のものを活用している。丸の内は高い禄の家臣の屋敷地となっていた。又、本丸には城代屋敷もあった。

本丸の西、内堀を隔てた台地、現在の三重県立上野高等学校グランド付近が、藩主の屋敷、御殿と呼ばれている。城下町は外堀の南に置かれ、本町筋、二の町筋、三の町筋があり、三の町筋に家臣や住民の消費にそなえた商人町があった。三の町筋の南側に堀が作られる予定であったが、中止になり外馬場となった。これ以外に馬場の南一帯は外輪と呼ばれる町、忍町が置かれ、更にその南に鉄砲足軽長屋が置かれ、鉄砲町と呼ばれていた。忍町の南一端はかや町と呼ばれる農家があったが、次第に町が形成され東の枝町と呼ばれていた。都市開発で埋め立てられた事もあって、現存する廓は本丸と伊予丸だけであり、本丸の内堀も現存している。又、予算の関係で城代屋敷、東大手門、西大手門、等の建物の木造復元計画はない。

嘉永7年(1854年)6月に、伊賀上野地震があり伊賀上野城をはじめ城下町に大被害があり、城内の建物の多くが壊れ、石垣が所々で破損した。


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