上皇后美智子
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皇室典範下で立后した初めての皇后でもある。2019年の明仁の退位に伴い、新たに設けられた身位である上皇后となった。

現在の住居は、東京都港区元赤坂赤坂御用地にある仙洞御所
来歴「ミッチー・ブーム」も参照
少女時代1940年(昭和15年)頃の正田美智子

1934年(昭和9年)10月20日日清製粉グループ会長の正田英三郎正田富美1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現・東京都文京区東部)の東京帝国大学医学部附属病院で誕生[3]

大和郷幼稚園、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年(昭和16年)に雙葉学園雙葉小学校入学1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県藤沢市の乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)、1945年(昭和20年)5月には、長野県の軽井沢第一国民学校(初等科5年に転入、同年9月まで在籍)[4]転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎旧居に、一時在住したこともある。

小学生時代の性格は、担任の回想では「真面目な女子児童」、「活発で勝ち気だった」、「神経質な性格だった」とされていて、スポーツが得意な女子だった[5]。また、ピアノ絵画料理香道も習っていた[6]

1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業するが、当時は品川区五反田に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科へ入学する。1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は米国子役であったシャーリー・テンプルのような天然パーマだったことから「テンプルちゃん」や[7]「ミッチー」「ミチ」[6]と呼ばれていた。

1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。在学中に中学・高校の英語教員免許取得 [8]。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長[9]、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた[10]卒業式では総代として答辞を読んだ[11]。自身は大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた[12]。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクインした[13]。昭和29年度(1954年度)の成人の日記念の読売新聞社主催の感想文では2位に入選した。大学卒業論文は、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』(The Forsyte Chronicles by John Galsworthy)。大学卒業後にフランス語の習得をしながら19世紀児童文学の研究を続けていた[14]

同年8月、長野県軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会う。テニスコートの誓いにちなんだ「テニスコートの出会い」として知られ、その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は正田美智子(当時)の写真を「女ともだち」と題して宮内庁職員の文化祭に出品したが、「皇太子妃には旧皇族華族から選ばれるのが当然」と考えられていた時代であり、誰も彼女を「お妃候補」とは思わなかったようである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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