上海共同租界
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前近代的な暴動鎮圧方法を反省し、上海租界警察のウィリアム・E・フェアバーン(英語版)とエリック・A・サイクス(英語版)はSWATの原型ともいえる特殊部隊を編成してフェアバーン・システムを確立した[3]

1930年代には、日本などに対するテロ事件が頻発した。1935年には中山水兵射殺事件[4]、1936年にも別の日本人水兵銃撃事件が起きた[5]。1935年当時の上海には28,000人の日本人居留民が暮らしていた[6]

国共内戦が激化すると、多数の中国人が内戦から逃れ、或いはより良い経済状況を目指して共同租界に定住し始めた。1932年には、租界には百万を超える中国人が住み着き、1937年に第二次上海事変が勃発すると40万人の中国人たちが安全を求めてこの地域に逃げてきた。さらには、ユダヤ人迫害政策を取るナチ党政権下となったドイツの迫害を逃れてやってきた多くのユダヤ人たちに無条件で避難所として提供され、ユダヤ人たちは「無国籍難民限定地区」と言われる地域に集まり非常に人口密度が高い状態になった。
撤廃

この租界の撤廃については第二次世界大戦中の各国の思惑から二重に行われることになった。イギリス人とアメリカ人の影響は、実質的には1941年12月8日の日本軍による上海占領と太平洋戦争開戦によって終わっていた。上席の連合国派の職員と評議員はその職から解任されたにもかかわらず、多くの連合国は1943年に抑留されるまで職の管理存続に動いていた。しかし、この租界は1943年2月に英中友好条約によって形式上、イギリスから中国国民党の?介石に租界を「返還」している。しかし日本軍と戦っていた?介石はこの時期上海を統治しておらず、これはあくまで形式上のものであった[7]

一方で1943年7月、上海市議会(工部局)の日本人の画策で租界は日本と関係の深い汪兆銘政権下の上海市政府に返還された。太平洋戦争後、中国国民党率いる中華民国政府の統治下になった際に、この返還事業の清算委員会が慌てて譲渡の詳細について会談した跡が残っている。工部局庁舎だった建物は現存している。

その後国共内戦で中国国民党が敗北し、中国国民党が台湾に脱出した。中国共産党率いる中華人民共和国が設立された1949年以降は、市政府(工部局)は中国共産党の選んだ上海市長の下におさまった。
出典^ 『外交官の一生』P.228 石射猪太郎著 中公文庫
^ North China Herald, 2 September 1854, p. 8.
^ Hans-Christian Vortisch. “ ⇒GURPS Martial Arts”. 2019年8月11日閲覧。
^ “『日本外交文書』 昭和期II第一部第四巻(上・下)「上海における日本人水兵射殺事件」”. 外務省. 2011年10月8日閲覧。
^ 日本外交文書デジタルアーカイブ 昭和期II第1部 第5巻 上巻. 外務省. p. 657. https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DS0002/0007/0001/0006/0003/0003/index.djvu 2011年10月4日閲覧。 
^ “居留民団長らと朗らかな交歓 法人の活躍振りを聴く上海 本社日支国際電話の第一声”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1936年2月16日). 2011年10月8日閲覧。
^ 『外交官の一生』P.234 石射猪太郎著 中公文庫

関連項目

上海租界

帝国主義

太陽の帝国

上海交響楽団


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