上杉謙信
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^ 文書上でのやりとりのみ。
^ 江戸時代後期の白河藩士・広瀬蒙斎による『白河風土記』は「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)と評している。今川家や北条家から塩を禁輸された武田信玄に塩を送ったとされる「敵に塩を送る」の故事も有名であるが、同時代の史料では確認できず、後世創作された可能性が高い。
^ a b 山田邦明、萩原大輔など[3]
^ 謙信の父・長尾為景が憲政の義理の祖父である関東管領上杉顕定を滅ぼした長森原の戦い以来、山内上杉家と長尾氏の関係は断絶していたが、天文17年(1548年)頃から、上杉憲政と長尾晴景の間で関係修復が行われ始めていた[16]
^ 叙任の月日は、上杉家御年譜一・謙信公では4月23日[17]上杉家文書・上越七三では5月26日(大覚寺義俊の斡旋による)としている。なお、歴名土代には記載なし。
^ なお、『歴代古案』所載の景虎遺言では比叡山に隠棲したとしている。
^ かつて北条三郎は北条氏秀と同一とされていたが、『関八州古戦録』以外に出典がなく、現在では否定的意見が有力である[25][26]
^その時歴史が動いた』(NHK、2007年4月4日放送。『NHKその時歴史が動いた傑作DVDマガジン戦国時代編 Vol.9 上杉謙信』〈講談社MOOK〉2012年1月。)では、「関東侵攻後、信長を打倒し京へ上洛」が有力説とされた。
^ 『上杉輝虎書状案』によると、1564年10月1日に謙信自ら普請の完了を確認している。
^ 栗岩英冶、桑田忠親井上鋭夫花ヶ前盛明など多くの研究者が著書で指摘している。
^ 風湿(痛風リウマチに相当する漢方医学の語)。風毒ともいう。
^ 将軍・義輝は病気見舞いとして大舘左衛門佐輝氏を坂本の陣所へ遣わし、同日、鉄砲火薬の調合書(『鉄放薬之方并調合次第』)一巻を謙信に贈った。
^ 近衛前久からの慰問の書状がある(「ふくちういかゝ候や、これのみあんじ申候。うけたまはりたく候。猶ゆたんなく、御屋うじやうかんよふにて候」6月10日付[46])。
^ 雪の中、厠で倒れたと史料にあることも、死因が脳卒中だと考えられる一因である。
^ 松隣夜話』の記述を基に、王丸勇が著書『英雄医談―病跡学こぼれ話』で推測した[48]
^ 池田嘉一は著書『史伝上杉謙信』において、北越軍記の史料価値の否定とともに謀殺説を批判した[44]が、没地について論拠を求めた布施秀治の『上杉謙信傳』では、『謙信公御年譜』に記された永禄4年7月5日の死亡は明らかな誤りと著されている[41]。これは、永禄7年3月までの政景の文書が存在しているからであり、この点に関してだけは『北越軍記』の同年7月5日死亡が正しいものとしている。何れにせよ記録が錯綜しているため、どの説についても確証は得られない。
^ 長尾謙忠は詰腹。一族郎党は後任城代の北条高広に託した[51]
^関八州古戦録』では主従45騎、『常山紀談』では13騎、『名将言行録』だと23騎率いると記されていた。
^ 謙信は仏教を信仰していたが、信仰していたのは一向宗浄土真宗)ではなく真言宗である。
^ 一文字派は長船刀工である。

出典^ 系図纂要大日本史料、上杉三代日記、北越軍談より。
^ 上杉謙信書翰
^ 「義の武将」謙信 実像に迫る/新史料や分析 過度な美化見直しも『読売新聞』朝刊2020年11月4日(文化面)
^ 小野榮 2006.
^ a b c 小野榮 2006, p. 63.
^ a b 井上 1964, p. 15.

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