上杉氏
[Wikipedia|▼Menu]
また、四条隆親の正室は足利氏出身であった。宗尊親王の失脚後、重房が足利氏の被官になったのはその縁とみられる。もっとも、被官といっても上杉氏は家柄もあり、足利家当主の外戚であったことから、家中において重んじられた。
南北朝時代

南北朝時代では重房の孫の憲房は妹の清子足利尊氏直義兄弟の母であったことから尊氏を助けて功績を立て、上野守護に任ぜられて関東南朝方新田氏と戦った。また、重房の別の孫には師の日印の問答対決を「鎌倉殿中問答」にまとめた題目宗の僧の日静がいる。
室町時代

その後、憲房の戦死によって大きな打撃を受けるが、その遺児である憲顕重能兄弟や甥の朝定は足利尊氏・直義兄弟に重用された。その背景として尊氏兄弟は元々庶子で母方の上杉氏以外に有力な被官が存在しなかったが、先に家督を継いだ足利高義の急逝で異母弟である尊氏が跡を継いだために長年尊氏兄弟を支えた上杉氏が重んじられたことにあった。だが、長年にわたり足利氏の家宰を務め、元々は高義に仕えていたとみられる高氏と対立し、尊氏も高氏を重んじるようになったことから、上杉氏は直義との関係を強め、尊氏・高氏と直義・上杉氏の争いになった観応の擾乱では重能は殺害され、朝定は病死するなど、雌伏の時期を迎える。だが、憲顕が正平18年/貞治2年(1363年)に尊氏の次男で鎌倉公方足利基氏の執事(管領)に任ぜられ、後に初代関東管領として位置づけられ、さらに上野・越後・伊豆の守護を兼ねた。憲顕の活躍で上杉氏は復権し、鎌倉と京都で活躍するが、次第に関東を活動の拠点とするようになる。その結果憲顕を祖とする山内上杉家を嫡流とし、一族から犬懸宅間扇谷の諸家が出た(この4家の家名はそれぞれの屋敷のあった鎌倉近郊の地名を由来とする)。

宅間上杉家は早くに衰え、犬懸上杉家は上杉禅秀の乱により主流派から脱落したので、15世紀半ばからは憲顕の子孫山内上杉家と、憲顕の従兄弟の朝定の子孫扇谷上杉家の2家が有力となるが、関東管領の職はもっぱら山内上杉家の当主が独占した。室町時代中頃の山内上杉家当主であった関東管領上杉憲実足利学校の再興者として歴史に名を残している。その一方、上杉氏と足利公方家の対立が鮮明となり、享徳3年(1454年)には鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠(憲実の子)を殺害したことに発する内乱(享徳の乱)が発生し、関東は応仁の乱よりも十数年早く事実上の戦国時代に突入することとなった。
戦国時代・前期

享徳の乱の際、扇谷・山内両上杉家は連合して古河公方足利成氏(鎌倉公方の後身)と敵対していたが、成氏との和睦後は両家で争うようになり(長享の乱)、内紛の末に衰退し、新興の後北条氏に圧迫されるようになる。武蔵に勢力をもっていた扇谷上杉家は、天文15年(1546年)の河越夜戦で後北条氏に敗れて滅亡、上野を本拠としていた山内上杉家の上杉憲政も、河越夜戦以降は後北条氏の攻撃を直に受けるようになって勢力を衰退させていった。

憲政はついに関東を放棄し、もとは家臣筋であり外戚でもあった越後長尾氏を頼った。永禄4年(1561年)、憲政は上杉氏の事実上の嫡流となっていた山内上杉家の名跡と関東管領の職を越後三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に譲り、自身は春日山城に移った。深谷上杉家上杉憲盛は武蔵にとどまって北条氏との戦闘を継続した。
戦国時代・後期

上杉謙信は越後を拠点として領国を関東と北陸に拡大したが、北条氏政との抗争によって武蔵など関東地方の領国をほぼ喪失した。2度の上洛で弾正少弼に任じられ、元亀4年(1573年)8月に越中を平定。天正5年(1577年)7月には七尾城末森城が自落し、能登を平定。同年9月には、加賀国手取川で織田軍を破る。

佐渡の本間氏、越中の椎名氏・神保氏[4]飛騨の江馬氏・三木(姉小路)氏、上野の斎藤氏(吾妻郡)[5]・沼田氏(利根郡)、信濃の高梨氏、下野の佐野氏、陸奥の大崎氏[6]をゆるやかな従属下に置いた。加賀の一向一揆とは同盟し、松任城に守将を派遣した。能登の畠山氏[7]出羽の大宝寺(武藤)氏からは人質(畠山義春と大宝寺義氏は上杉姓を名乗った時期もあり、謙信の寄騎として従軍した)を取った。越前の朝倉氏滅亡後には朝倉景嘉を保護した[8]。上杉一族である武蔵深谷氏も一時的に支配下に置いたが、前述のように北条氏政の姻戚・外交政略により傘下から離脱した。

謙信は晩年、かつての不倶戴天の敵ともいえる北条や武田、父祖の仇である越中一向一揆などと和睦や同盟、不戦の方針に転じ、これが奏功して北陸方面への勢力拡大にはなったが、関東や信濃の諸大名の不満も招いた。

謙信の死後、2人の養子の景勝上田長尾家出身、謙信の甥)と景虎北条氏康の子)の間で家督争い(御館の乱)が起こり、この内乱によって従属下の勢力は独立したり、あるいは織田・北条・武田・伊達の傘下に入るなど、上杉家の影響力は著しく低下した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:117 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef