上杉景勝
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^ 「上杉家御年譜」には菊姫が病にかかった際、景勝がその病気平癒のために様々に手を尽くし、また菊姫が死去した際の景勝の嘆きの有様についての記述があり、菊姫の実家である武田家滅亡後も依然として正室であることも合わせて、少なくとも菊姫との夫婦仲が険悪だった可能性は低い。詳細は菊姫 (上杉景勝正室)参照。
^ 他家もこの頃に衆道禁止令を相次いで発布している。この禁止令は上杉家も含む諸大名家当主らが、藩士間の衆道を原因とするいざこざ(著名な例として、大内義隆蘆名盛隆らが家臣との衆道のこじれが原因で、自身の死と家の滅亡を招いていることが挙げられる)を防ぐために発布したものであり、当主などの衆道に対する好悪との関わりは薄いと見られる。
^ 景勝時代には常駐宣教師不在の中、甘糟信綱(甘糟景継の子とも、一族ともいわれている)親子や西堀式部(「寛永八年分限帳」に名前のみえる、御年寄衆西堀七左衛門政直の一族か)らが入信し、地道な布教活動が行われていたようだが、著しくキリシタンが増えるのは、景勝死後、アウグスチノ会の宣教師が置賜に常駐した寛永3年(1626年)以後のことと言われている。当時のフランシスコ会宣教師ディエゴ=デ=サンフランシスコの書簡には、当時米沢藩領内にいたキリシタンは一万人だが、半数の5,000人は寛永3年からの5年間の内に受洗したと書かれている。これは、特に寛永元年(1624年)の仙台・秋田・南部諸藩の大迫害後、キリシタン禁制がゆるやかであった米沢藩内に活発な伝道が行われたことが窺われ、こうした信者の著しい増加が、藩庁や幕府の注目するところとなり、ひいては寛永5年12月(1629年1月)の米沢大殉教につながったとの見方もある[47][48][49][50]

出典^ a b c d 花ヶ前 1995, p. 10.
^ a b c d 児玉 2010, p. 207.
^ 福原圭一・前嶋敏編集『上杉謙信』(高志書院、2017年)P31-41、52-53
^ 今福匡「越後長尾氏と上杉謙信の閨閥 -「越後長尾殿之次第」の検討を通して - 」(渡邊大門編『戦国・織豊期の諸問題』歴史と文化の研究所、2017年)P30-59
^ 児玉 2010, p. 9.
^ 児玉 2010, p. 32.
^ 山田, p. 55.
^ 山田, pp. 55?56.
^ 七宮, p. 190.
^ 今福匡『東国の雄 上杉景勝』(角川新書、2021年)
^ 「さらさら越え、立山越えず? 金沢・玉川図書館に書状の写し」(『北国新聞』2013年9月30日)
^ 富山市郷土博物館編『秀吉 越中出陣』
^ 竹井英文「〈越中国切〉をめぐる政治過程」『信濃』66巻12号、2014年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P252-263.
^ 児玉 2010, p. 90.
^ 児玉 2010, p. 93.
^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」(『駒沢史学』49号、1996年)
^ 黒板 1936, pp. 496?497.
^ 児玉 2010, p. 135.
^ 児玉 2010, p. 136.
^ 竹越與三郎『日本経済史 第3巻』(日本経済史編纂会、1920年) P.67
^ 児玉 2010, p. 145.
^ 黒板 1936, pp. 506?507.
^ 児玉 2010, p. 152.
^ 黒板 1936, pp. 512?513.
^ 児玉 2010, p. 160.
^ 児玉 2010, p. 167.
^ 児玉 2010, p. 172.

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