上杉景勝
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^ 後述する新発田重家との対立期の織田家の書簡には「長尾景勝」とあり、豊臣秀吉及び島津家の書簡にも「長尾」と散見される。ただし御館の乱前期に景勝が奉納した願文には「藤原景勝」と署名しており、少なくとも謙信没後には平姓長尾氏ではなく藤原姓上杉氏を称していたことだけは事実である。
^ 南魚沼市樺野沢にある龍澤寺には上杉景勝公生誕の地の石碑がある。また坂戸城跡にも上杉景勝・直江兼続生誕の地という石碑があるが、『新編会津風土記』には景勝は樺沢城で生まれたと記載があることから、樺沢城が有力とされる。
^ ただし、『上杉家御年譜』には永禄2年(1559年)頃には既に景勝が謙信の許にいたとする記述がある。
^ 永禄年間に甲斐武田氏駿河侵攻に対して相模国・後北条氏と越相同盟を結び、景虎を養子として迎えていた。元亀2年(1571年)、越相同盟は破棄され、武田氏と後北条氏の甲相同盟が回復していた。
^ 上杉家当主が武田家から正室を迎えたのは室町期の上杉禅秀以来。
^ 没日の記録より、景虎とともに鮫ヶ尾城で自害したとの説もある。
^ これには景勝の命令、景勝側の部下の裏切り、景虎側の部下の裏切り等様々な諸説があり断定はされていない。また、道満丸には信濃国豪族市川氏に庇護され、生存していたという説がある。
^ 成政が景勝の家臣から密かに助力を得て越後を通過し、徳川家康に密会したことを示唆する書状も存在する[11]
^ 前年閏8月に秀吉の待つ富山城に景勝は参上せず[12]
^ 景勝は羽柴・徳川・上杉の3者が絡んだ信濃問題が解決するまでは越中問題の解決は出来ないとする立場に立っていたらしく、景勝の上落後も越中国内に上杉軍がいたことを示す史料もある。越中からの上杉軍の撤退は同年10月の徳川家康の上洛による信濃郡割の最終確定を待って実施されたとみられる[13]
^ 『前田家文書』に新川郡加増の記録はあるが、秀吉もしくは豊臣家からの新川郡の領知判物が前田家に無く江戸時代に問題とされる。この際に上杉家から加賀藩に転出した直江氏(本多氏)が幕府と交渉している。
^ 『上杉家譜』など。1万石とする説もあるが、西国大名の毛利輝元宛が「8万3千石 京都台所入」(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)のため些少[要出典]。
^ 「大老」は後世の呼称であり、当時は「奉行」「年寄」(『武家事紀』第三十一、「加能越古文書」「毛利家文書」など)であったとする学説・文献もある。
^ 会津移封時、石高を明記した秀吉からの領地朱印状類は発給されていないが、「上杉家記」の「会津移封所領目録」には120万1,200石余と記されており、会津120万石は通説として『藩史大事典 第一巻 北海道・東北編』(雄山閣、1988年)を始め多くの書籍に記載されている。なお「秋田家史料」(東北大学附属図書館蔵)の「全国石高及び大名知行高帳」には会津中納言として91万9千石。上杉将士書上には会津50万石国替。
^ 幕府から上杉氏に与えられた領地判物の初見は寛文4年(1664年)の上杉綱勝宛領地判物「上杉家文書」であるが、景勝時代に軍役を賦課する場合の公式高としての30万石は大坂冬の陣での出勤数等より明らかとされている[31]。また、原本、写本とも現存しないが、寛永11年(1634年)、家光より30万石の領地朱印状が交付されたと推測されている[32]
^ 呼称は「五人の衆」など複数あり
^ 「上杉家御年譜」には菊姫が病にかかった際、景勝がその病気平癒のために様々に手を尽くし、また菊姫が死去した際の景勝の嘆きの有様についての記述があり、菊姫の実家である武田家滅亡後も依然として正室であることも合わせて、少なくとも菊姫との夫婦仲が険悪だった可能性は低い。詳細は菊姫 (上杉景勝正室)参照。
^ 他家もこの頃に衆道禁止令を相次いで発布している。この禁止令は上杉家も含む諸大名家当主らが、藩士間の衆道を原因とするいざこざ(著名な例として、大内義隆蘆名盛隆らが家臣との衆道のこじれが原因で、自身の死と家の滅亡を招いていることが挙げられる)を防ぐために発布したものであり、当主などの衆道に対する好悪との関わりは薄いと見られる。
^ 景勝時代には常駐宣教師不在の中、甘糟信綱(甘糟景継の子とも、一族ともいわれている)親子や西堀式部(「寛永八年分限帳」に名前のみえる、御年寄衆西堀七左衛門政直の一族か)らが入信し、地道な布教活動が行われていたようだが、著しくキリシタンが増えるのは、景勝死後、アウグスチノ会の宣教師が置賜に常駐した寛永3年(1626年)以後のことと言われている。当時のフランシスコ会宣教師ディエゴ=デ=サンフランシスコの書簡には、当時米沢藩領内にいたキリシタンは一万人だが、半数の5,000人は寛永3年からの5年間の内に受洗したと書かれている。これは、特に寛永元年(1624年)の仙台・秋田・南部諸藩の大迫害後、キリシタン禁制がゆるやかであった米沢藩内に活発な伝道が行われたことが窺われ、こうした信者の著しい増加が、藩庁や幕府の注目するところとなり、ひいては寛永5年12月(1629年1月)の米沢大殉教につながったとの見方もある[47][48][49][50]

出典^ a b c d 花ヶ前 1995, p. 10.
^ a b c d 児玉 2010, p. 207.

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