上を向いて歩こう
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同年8月19日NHKで放送されていたバラエティ番組夢であいましょう」でテレビ初披露[8]。同番組において、1961年10月・11月の「今月のうた」として発表され、同年10月15日にレコードが発売されると爆発的なヒットとなった。発売から3か月で30万枚を突破[9]。当時の日本のレコード売り上げランキング(『ミュージック・ライフ』誌に掲載されていた国内盤ランキング[注釈 2])では1961年11月 - 1962年1月まで3か月にわたり1位を独走した[10]。1968年時点での日本での累計売上は80万枚[11]

売り上げだけを見れば相当なものであったが、当時最も新しく不良の音楽とされたロカビリー(現代でいうロックンロール)出身の坂本の独特な歌い回しが耳に合わない当時の保守的な日本の歌謡界においてその評価は高くなかった。日本レコード大賞にも選ばれていない。だが、この評価は世界での大成功により覆された。

坂本九は本楽曲で1961年の「第12回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした。また、2000年の「第51回NHK紅白歌合戦」の第一部終了後、紅白に出演していた時の坂本九の映像のもと、出場歌手によって「上を向いて歩こう」が大合唱された。

「夢であいましょう」の出演者の一人だった黒柳徹子は、当時の日本には「ランキング」というもの自体が無く(オリコンの集計は1968年開始)、ましてや「全米ビルボード1位」というのが、どれほどすごいことなのか分からず、坂本がアメリカから帰って来た時も「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」として、世界各国で発売されていることは知っていたため、それに対して「すごいね」とは言ったものの、「よくやった」、「おめでとう」という言葉を、当時の坂本に言うことが出来なかった。作詞の永六輔や作曲の中村八大も、特に喜んでいる素振りもなく、普通にしていた、と後に語っている[12]

作詞者の永六輔自身は、レコーディングの時に歌い出しの「上を向いて……」の部分を初めて聴いて「ウエヲムーイテ」が「ウヘホムフイテ」に聞こえたといい、「何だその歌い方は!」と坂本に向かって激怒し、「これでは絶対ヒットしない」と言った[13][7]。この独特の歌い方は、母がやっていた小唄と、プレスリーやバディ・ホリーの影響であるとも言われている[13]。永六輔は後に、坂本九の母が九に小唄や清元などの邦楽を教えたという話から、坂本九と邦楽の歌い方を結びつけて考えるようになり、邦楽的な歌い方が、この歌の世界的なヒットと関係があると考えた[7]。また、この坂本の編み出した独特の歌唱法は、当時はとても斬新であり、個性的なものとしてとらえられた。

なお、本曲の間奏で流れる口笛も、口笛が得意だった坂本九本人が担当している。

1994年以後、日本の音楽教科書にも何度か掲載されている[14]

2007年3月4日、茨城県笠間市のJR常磐線友部駅において発車メロディーに、2008年12月20日、神奈川県川崎市にある京急川崎駅で接近メロディーに、2016年12月10日、同じ神奈川県川崎市にあるJR川崎駅の東海道線で発車メロディーに採用される。
海外でのヒット

1962年、ヨーロッパでこの曲が紹介されて、大ヒットした。フランスなどでは原題と同じ意味のタイトルで発売されたが、イギリスでは「SUKIYAKI」、ベルギーオランダでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」という曲名で発売された。

1962年、イギリスのディキシーランド・ジャズのトランペッター、ケニー・ボール(英語版)が彼のバンドでインスト曲として演奏し、「SUKIYAKI」(無論、曲自体に『すき焼き』という単語は出てこない)というタイトルで発売、全英チャートで10位にランクインした。

「SUKIYAKI」という曲名は、ケニー・ボールの所属したイギリスのパイ・レコードの社長ルイス・ベンジャミンが契約の話で来日した際、土産にもらった数枚の日本のシングルレコードをホテルに帰ってから聴いた中にあった「上を向いて歩こう」を大変気に入り、帰国後ジャズでリリースすることに決めたが、レコードには日本語のタイトルしか印刷されておらず、原題の「UE O MUITE ARUKOU(上を向いて歩こう)」というタイトルがわからなかったため、『日本で契約の際に会食した「スキヤキ」が心に残る食べ物だった』という理由で、日本料理の名前を付けたのであると言われている。しかしケニー・ボールの証言では、「上を向いて歩こう」ではタイトルが長くなってしまうので短くわかりやすい日本語の曲名をつけたかったが彼が知っていたものが「SUKIYAKI」と「SAYONARA(さよなら)」ぐらいだったため、「サヨナラ」では暗すぎるのでどうすれば良いかと思案していたが、中華料理屋での会食で同席していた友人の女性歌手ペトゥラ・クラーク[注釈 3]に相談したところ「SUKIYAKI」がいいと言われたこともあり、タイトルに採用されることとなった。この英語題について、『ニューズウィーク』のコラムニストであるフレッド・ブロンソンは「『ムーン・リバー』を日本で『ビーフシチュー』というタイトルで売り出すようなものだ」と評した[15]

実はケニー・ボールはレコーディングの直前に最愛の母を亡くしており、その哀しみをトランペットに込めて演奏[注釈 4]、これもヒットにつながった要因の一つといえる。

なお、ケニー・ボールは現在でも自分のバンドの演奏レパートリーにこの曲を加えており、2005年にはこの曲が海外でヒットした経緯を辿る番組のために、彼のコンサートを訪れていた坂本九の次女の大島舞子(舞坂ゆき子)を特別にヴォーカルに迎えて演奏した。

アメリカでは、イギリスでヒットしたケニー・ボール楽団のレコードが発売されたが、チャートの100位以内には入らなかった。しかしワシントン州パスコのラジオDJリッチ・オズボーンが偶然坂本九のレコードを入手し[注釈 5]、ラジオ番組で「SUKIYAKI」として紹介すると、局に問い合わせが殺到した。メロディも今までの曲調とは違い、ボーカルもジャズやロックシンガーのようなテイストがあるとティーンエイジャーから火が付いた。当時は女性が歌っていると勘違いする人もいたという[16]。そして1963年、「SUKIYAKA」の題でキャピトル・レコードから発売が決定した。この「SUKIYAKA」という米題は誤植ではなく、ラジオDJが曲紹介をする際、歌手の「KYU SAKAMOTO」とを踏ませるために、キャピトル・レコードのデイヴ・デクスター・ジュニア(英語版)が意図的に命名したものである。しかし、東芝レコードの石坂範一郎の説得により発売時には「SUKIYAKI」に訂正された[17]

同年5月3日[18]にアメリカでレコードが発売されると、ビルボードBillboard Hot 1006月15日付から6月29日付まで3週連続、キャッシュボックスのTop 100で6月15日付から7月6日付まで4週連続1位のヒットとなった。ビルボードのR&Bチャートでは最高18位にランクインされている。Billboard Hot 100において、英語以外の歌では1958年ドメニコ・モドゥーニョ「ボラーレ」(イタリア語)以来2曲目の1位である。また、Billboard Hot 100では同年の年間チャート13位にもランクインしている[19]。日本でも「全米1位」の影響を受け、シングルが新たにプレスされて『ミュージック・ライフ』の国内盤ランキングに再チャート入りを果たした。

当時、「SUKIYAKI」が全米で1位を獲得したことを、日本の一般紙がリアルタイムで報道した形跡は確認されていない[18]。アメリカでも一般紙による報道は非常に少なく、例外的にロサンゼルス日本語新聞羅府新報』が1963年6月15日付にて報じた[18]。『週刊朝日』の1963年6月21日号では、「世界第4位のレコード生産」という記事の導入部で「SUKIYAKI」が全米2位(当時)になったことを報じた[20]。また、日本の東芝レコードの反応は「あまりの遠い国での出来事に実感がなかった」という。

なお、キャピトル側は最初、アメリカでは英語以外の歌がヒットした前例がほとんど無いことから坂本九に英語で歌わせようとしたが、米軍時代に駐日経験のあるオズボーンは日本語で売り出した方が受けがいいと主張、日本語のオリジナルバージョンがそのまま発売された[21]

この大ヒットを受けて、同年8月に坂本九はキャピトル・レコードの招きで渡米、空港に到着した際に3000人を超える坂本のファンが押し寄せた[22]


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