三韓征伐
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407年、春3月、倭人が東辺を侵し、夏6月にまた南辺を攻める[18]


新羅19代王訥祇麻立干の時代(在位:417年 - 458年)

418年、人質の未斯欣が倭国から逃げ帰った[18]


倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事

413年から478年まで、倭国の倭の五王は、東晋朝貢し、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた[36]438年までに倭王讃を継承した弟の珍は「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称し[37]、同年4月に宋の文帝は珍を「安東将軍倭国王」とした[38]

451年、倭国王済は宋の文帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号された。478年、済の後を継いだ子の興が没し王と成っていた興の弟の武は、宋の順帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王」に叙任された。武は百済も加えた七国諸軍事の都督を自称したが認められなかった。高句麗に関しては自称もしていない[39]。詳細は「倭の五王」を参照
その他の史料との関連

4世紀の倭の朝鮮半島進出は、広開土王碑七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。

4世紀後期頃から倭国ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されているため、三韓征伐神話を根拠として用いずとも4世紀後半以降の倭の朝鮮半島進出は史実として立証されている。
中国・朝鮮の史書との関連

中国史書(『宋書』など)の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、朝鮮側の史書『三国史記』からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。

『三国史記』『三国遺事』といった朝鮮側の史料には、「オキナガタラシヒメあるいは倭女王の来襲(『三国史記』には卑弥呼の遣使は記載されている)」という記述は見られない。ただし、『三国史記』には新羅に倭兵が攻め込んだという記事が頻出するため、記紀に伝わる新羅征伐の伝承それ自体は、格別不審な伝承ではない。また『日本書紀』にある新羅王子の人質の件に関しては、5世紀初頭の、王子未斯欣の人質と、新羅王の部下朴堤上による王子奪還(王子は新羅に逃れたが朴堤上は倭国側によって処刑された)事件と合致することが指摘されている[40]
広開土王碑詳細は「好太王碑」を参照

広開土王碑文には、4世紀末に倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが、高句麗側の視点から記録されている。

李進熙は、1972年に好太王碑改竄説を主張し、広開土王碑碑文は大日本帝国陸軍大日本帝国の半島進出を正当化するために碑に手を加え改竄したとしたが、2005年(平成17年)6月23日に墨本が中国で発見され、さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され[41]、これにより改竄・捏造説は完全に否定された[42][43]
七支刀詳細は「七支刀」を参照

神功52(252または372)年9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七支刀を贈った。

なお、七支刀に彫られた「泰■四年」を太和4年とする説がある。この場合、東晋の太和4年とされる[44]。但し、この場合には泰の文字と太の文字が異なるために疑問視する声もある。また七支刀に彫られた「泰■四年」を西晋の泰始4年(268年)もしくは宋の泰始4年(468年)だという説もあり、こちらは泰の文字が合致するのでこちらを主張する学者も存在する。

山尾幸久は、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じている[45]ことから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったと解釈している[46][44]。また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があったとする[46][44][47]。浜田耕策は百済王が原七支刀を複製して、刀を倭王に贈るという外交は、当時、百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[44]
職貢図詳細は「職貢図」を参照

2011年に発見されたの『梁職貢図』[48]には、新羅が「あるときは韓に属し、あるときはに属した」と、新羅が倭の属国であったと記されている。『梁職貢図』は、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた526年から539年までの間に作成されたとされ、新羅が倭国に属していた時期は、これより前の年代になる。なお、蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の南京市)で調査し、また裴子野469年?530年没)の方国使図を参考にした[49]。斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。あるとき韓に属し、あるときはに属したため国王は使者を派遣できなかった。普通2年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。
関連史蹟・神社・関連伝承

神功皇后による三韓征伐に関する神社、史蹟、関連伝承は、多数ある[50]

香椎宮

恩智神社

牛窓神社

住吉神社・住吉大社

住吉神社 - 福岡県福岡市博多区住吉。筑前国一宮

住吉大社 - 大阪府大阪市住吉区住吉。摂津国一宮。神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)に帰還した時、神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀ったのに始まる。その後、神功皇后も祭られる。応神天皇の頃から、田裳見宿禰の子の津守豊吾団(つもりのとよあだ、つもりのとよのごだん)を祖とする津守氏が宮司氏族を務める。

住吉神社 - 壱岐市芦辺町住吉東触。住吉大神の守護によって三韓征伐を為し遂げた神功皇后が、その帰途現在の壱岐市郷ノ浦町大浦触に上陸して三神を祀ったのに始まる。

対馬

海神神社 - もとは「木坂八幡宮」と呼ばれていた。

厳原八幡宮神社 - 社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は神霊が宿る山であるとして山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀った。


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