三韓征伐
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さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった[18]


第4代新羅王の脱解尼師今の時代(在位57年-80年

脱解尼師今は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ[18]、この多婆那国は日本列島の丹波国に比定される事が多い[20]。脱解尼師今の出身氏族である昔氏は倭国と交易していた倭人の氏族とされる[21]

73年倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島[22])に進入してきたので、角干(1等官の伊伐?の別名)の羽烏(うう)を派遣したが敗れ、羽烏は戦死した[18]

77年には伽耶と戦って大勝した阿?(6等官)の吉門を波珍?(4等官)に引き上げた[18]


第5代新羅王の婆娑尼師今の時代(在位80年-112年

倭国に服属した新羅王(波沙寐錦、はさむきむ)のことを指すともいわれる[23]。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷之寐錦」としていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいう[24]法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとする説もある[25]。なお、法興王の前代の智証麻立干(500-514年)の時代に国号を新羅、君主号を王に定めた[18]


第6代新羅王の祇摩尼師今の時代(在位:112年 - 134年)

121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した[18]

翌年123年3月に倭国と講和した[18]


第8代新羅王の阿達羅尼師今の時代(在位:154年 - 184年)

158年、倭人が来訪する[18]

173年5月、倭の女王卑彌乎が新羅に使者を送る[18]。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条からの造作で、かつ干支を一運遡らせたとする説もある[26]


第9代新羅王の伐休尼師今の時代(在位:184年 - 196年)

193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した[18]


第10代王奈解尼師今の時代(在位:196年 - 230年)

200年仲哀天皇9年)天皇崩御後、応神天皇を身籠っていた神功皇后は対馬より半島に至り、新羅王都に到る。新羅王の波沙寐綿は抵抗することなく降伏し、微叱己知波珍干岐を人質に出し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと誓約した[19]。なお、古事記は仲哀天皇崩御を362年とする。

205年(神功皇后摂政5年)人質の微叱旱岐が新羅に逃げ帰った[19]

208年夏4月、倭人が国境を侵す[18]。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。


第11代王助賁尼師今の時代(在位:230年 - 247年)

232年4月に倭人が首都金城に攻め入った[18]。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。

233年5月、倭人が東部国境に侵入[18]。同7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。


第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 - 261年)

249年夏4月、倭人が昔于老を殺害[18]

249年(神功皇后摂政49年)、荒田別鹿我別を派遣し、百済の木羅斤資らと共に新羅を破る[19]


第13代王味鄒尼師今の時代(在位:262年 - 284年)

262年(神功皇后摂政62年)、新羅が朝貢しなかったので葛城襲津彦を派遣して討たせた[19]

272年(応神天皇3年)、百済辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰羽田矢代宿禰蘇我石川宿禰平群木菟宿禰が遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した[19]

277年(応神天皇8年)、百済の阿花王は王子の直支(とき)を人質として日本に送った[19]

283年(応神天皇14年)、弓月君百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の民が帰化を求めていますが、新羅人が阻むため、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、加羅国の弓月の民を召したが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった[19]


第14代の王儒礼尼師今の時代(在位:284年 - 298年)

285年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた[27][19]

285年(応神天皇16年)、百済の阿花王が薨去した。日本に人質として滞在していた直支が帰国して王となった[19]

287年4月、倭人が一礼部[28]に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った[18]

292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉?の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した[18]

294年、倭兵が長峯城を攻略した[18]。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。

297年、伊西国[29]に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した[18]

297年(応神天皇28年)、高句麗王が遣使し朝貢した。その上表文に「高麗王教日本國也」とあった。太子の菟道稚郎子は無礼を怒り、高句麗の使者を責め、表を破った[19]


第15代の王基臨尼師今の時代(在位:298年 - 310年)

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