三韓征伐
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364年4月、倭軍が侵入[18]。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧?(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする[33]

365年仁徳天皇53年)5月、新羅が朝貢を怠ったため竹葉瀬田道を派遣し征伐。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四つの村の民を捕虜として連れ帰る[19]

391年辛卯年)倭が海を渡って百済(百残)・加羅(二字不明で異説あり)・新羅を破り、倭国の臣民となした[34]

392年正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は高句麗を恐れ、王族の伊?(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として差し出した[18]。秋7月、高句麗王好太王が4万の兵で百済北の国境を攻め、石?など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗は百済の関彌城を落とした。百済の辰斯王が11月、狗原の行宮にて死去した[35]

393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた[18]

397年、百済の阿?王は王子腆支を人質としてに差し出し服属した(『三国史記』百済本紀)。

399年永楽9年)、百済高句麗との誓いを破って倭と和通したため[34]、高句麗王は百済を討つため平壌に侵攻した。同じ頃、新羅は倭軍が国境を越えて城を攻略し民を奴客となし、首都を囲んでいるため、高句麗に救援を求めた。新羅の長が自ら使者として高句麗王に拝謁し「多くの倭人が新羅に侵入して城を落とし首都を囲んでいる」と窮状を訴え、高句麗の臣下になる事を願い出たので、大王は救援することにした[34]

400年(永楽10年)、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する[34]。このとき新羅の首都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると、倭軍は任那加羅まで後退を始め高句麗軍は後を追った[34]。ところが、倭傘下の安羅軍などが逆を突いて、新羅の首都を占領した[34]


新羅18代王実聖尼師今の時代(在位:402年 - 417年)

402年、三月、新羅が倭国と通好し、新羅は奈勿尼師今の子、未斯欣を人質として倭に送った[18]

404年(永楽14年)、帯方界で倭軍の攻撃を受けるが高句麗は撃退した[34]

405年、倭兵が明活城を攻める[18]

405年、百済の阿?王が薨去し、倭国の人質になっていた腆支が帰国して即位した(『三国史記』百済本紀)。

407年、春3月、倭人が東辺を侵し、夏6月にまた南辺を攻める[18]


新羅19代王訥祇麻立干の時代(在位:417年 - 458年)

418年、人質の未斯欣が倭国から逃げ帰った[18]


倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事

413年から478年まで、倭国の倭の五王は、東晋朝貢し、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた[36]438年までに倭王讃を継承した弟の珍は「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称し[37]、同年4月に宋の文帝は珍を「安東将軍倭国王」とした[38]

451年、倭国王済は宋の文帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号された。478年、済の後を継いだ子の興が没し王と成っていた興の弟の武は、宋の順帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王」に叙任された。武は百済も加えた七国諸軍事の都督を自称したが認められなかった。高句麗に関しては自称もしていない[39]。詳細は「倭の五王」を参照
その他の史料との関連

4世紀の倭の朝鮮半島進出は、広開土王碑七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。

4世紀後期頃から倭国ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されているため、三韓征伐神話を根拠として用いずとも4世紀後半以降の倭の朝鮮半島進出は史実として立証されている。
中国・朝鮮の史書との関連

中国史書(『宋書』など)の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、朝鮮側の史書『三国史記』からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。

『三国史記』『三国遺事』といった朝鮮側の史料には、「オキナガタラシヒメあるいは倭女王の来襲(『三国史記』には卑弥呼の遣使は記載されている)」という記述は見られない。ただし、『三国史記』には新羅に倭兵が攻め込んだという記事が頻出するため、記紀に伝わる新羅征伐の伝承それ自体は、格別不審な伝承ではない。また『日本書紀』にある新羅王子の人質の件に関しては、5世紀初頭の、王子未斯欣の人質と、新羅王の部下朴堤上による王子奪還(王子は新羅に逃れたが朴堤上は倭国側によって処刑された)事件と合致することが指摘されている[40]
広開土王碑詳細は「好太王碑」を参照

広開土王碑文には、4世紀末に倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが、高句麗側の視点から記録されている。

李進熙は、1972年に好太王碑改竄説を主張し、広開土王碑碑文は大日本帝国陸軍大日本帝国の半島進出を正当化するために碑に手を加え改竄したとしたが、2005年(平成17年)6月23日に墨本が中国で発見され、さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され[41]、これにより改竄・捏造説は完全に否定された[42][43]
七支刀詳細は「七支刀」を参照

神功52(252または372)年9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七支刀を贈った。

なお、七支刀に彫られた「泰■四年」を太和4年とする説がある。この場合、東晋の太和4年とされる[44]。但し、この場合には泰の文字と太の文字が異なるために疑問視する声もある。また七支刀に彫られた「泰■四年」を西晋の泰始4年(268年)もしくは宋の泰始4年(468年)だという説もあり、こちらは泰の文字が合致するのでこちらを主張する学者も存在する。

山尾幸久は、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じている[45]ことから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったと解釈している[46][44]。また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があったとする[46][44][47]


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