三韓征伐
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王子ではないが、阿?(6等官)の急利[31]の娘を嫁として送った[18]

323年仁徳天皇11年)、新羅が朝貢に参じる[19]

329年(仁徳天皇17年)、新羅が朝貢を怠る。9月、砥田宿禰と賢遺臣を派遣して詰問すると、新羅は貢納を果たした[19]

344年、倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして断った[18]

345年、倭国は怒り、国書を送って国交断絶[18]

346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した[18]。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐?の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする[32]

353年仁徳天皇41年)、天皇の命で紀角宿禰が百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送った[19]


新羅17代王奈勿尼師今の時代(在位:356年 - 402年)

356年奈勿尼師今が即位。新羅の実質上の建国年とも。

364年4月、倭軍が侵入[18]。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧?(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする[33]

365年仁徳天皇53年)5月、新羅が朝貢を怠ったため竹葉瀬田道を派遣し征伐。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四つの村の民を捕虜として連れ帰る[19]

391年辛卯年)倭が海を渡って百済(百残)・加羅(二字不明で異説あり)・新羅を破り、倭国の臣民となした[34]

392年正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は高句麗を恐れ、王族の伊?(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として差し出した[18]。秋7月、高句麗王好太王が4万の兵で百済北の国境を攻め、石?など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗は百済の関彌城を落とした。百済の辰斯王が11月、狗原の行宮にて死去した[35]

393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた[18]

397年、百済の阿?王は王子腆支を人質としてに差し出し服属した(『三国史記』百済本紀)。

399年永楽9年)、百済高句麗との誓いを破って倭と和通したため[34]、高句麗王は百済を討つため平壌に侵攻した。同じ頃、新羅は倭軍が国境を越えて城を攻略し民を奴客となし、首都を囲んでいるため、高句麗に救援を求めた。新羅の長が自ら使者として高句麗王に拝謁し「多くの倭人が新羅に侵入して城を落とし首都を囲んでいる」と窮状を訴え、高句麗の臣下になる事を願い出たので、大王は救援することにした[34]

400年(永楽10年)、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する[34]。このとき新羅の首都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると、倭軍は任那加羅まで後退を始め高句麗軍は後を追った[34]。ところが、倭傘下の安羅軍などが逆を突いて、新羅の首都を占領した[34]


新羅18代王実聖尼師今の時代(在位:402年 - 417年)

402年、三月、新羅が倭国と通好し、新羅は奈勿尼師今の子、未斯欣を人質として倭に送った[18]

404年(永楽14年)、帯方界で倭軍の攻撃を受けるが高句麗は撃退した[34]

405年、倭兵が明活城を攻める[18]

405年、百済の阿?王が薨去し、倭国の人質になっていた腆支が帰国して即位した(『三国史記』百済本紀)。

407年、春3月、倭人が東辺を侵し、夏6月にまた南辺を攻める[18]


新羅19代王訥祇麻立干の時代(在位:417年 - 458年)

418年、人質の未斯欣が倭国から逃げ帰った[18]


倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事

413年から478年まで、倭国の倭の五王は、東晋朝貢し、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた[36]438年までに倭王讃を継承した弟の珍は「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称し[37]、同年4月に宋の文帝は珍を「安東将軍倭国王」とした[38]

451年、倭国王済は宋の文帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号された。478年、済の後を継いだ子の興が没し王と成っていた興の弟の武は、宋の順帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王」に叙任された。武は百済も加えた七国諸軍事の都督を自称したが認められなかった。高句麗に関しては自称もしていない[39]。詳細は「倭の五王」を参照
その他の史料との関連

4世紀の倭の朝鮮半島進出は、広開土王碑七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。

4世紀後期頃から倭国ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されているため、三韓征伐神話を根拠として用いずとも4世紀後半以降の倭の朝鮮半島進出は史実として立証されている。
中国・朝鮮の史書との関連

中国史書(『宋書』など)の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、朝鮮側の史書『三国史記』からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。

『三国史記』『三国遺事』といった朝鮮側の史料には、「オキナガタラシヒメあるいは倭女王の来襲(『三国史記』には卑弥呼の遣使は記載されている)」という記述は見られない。ただし、『三国史記』には新羅に倭兵が攻め込んだという記事が頻出するため、記紀に伝わる新羅征伐の伝承それ自体は、格別不審な伝承ではない。また『日本書紀』にある新羅王子の人質の件に関しては、5世紀初頭の、王子未斯欣の人質と、新羅王の部下朴堤上による王子奪還(王子は新羅に逃れたが朴堤上は倭国側によって処刑された)事件と合致することが指摘されている[40]
広開土王碑詳細は「好太王碑」を参照

広開土王碑文には、4世紀末に倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが、高句麗側の視点から記録されている。


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