三韓征伐
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新羅王の波沙寐綿は抵抗することなく降伏し、微叱己知波珍干岐を人質に出し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと誓約した[19]。なお、古事記は仲哀天皇崩御を362年とする。

205年(神功皇后摂政5年)人質の微叱旱岐が新羅に逃げ帰った[19]

208年夏4月、倭人が国境を侵す[18]。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。


第11代王助賁尼師今の時代(在位:230年 - 247年)

232年4月に倭人が首都金城に攻め入った[18]。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。

233年5月、倭人が東部国境に侵入[18]。同7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。


第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 - 261年)

249年夏4月、倭人が昔于老を殺害[18]

249年(神功皇后摂政49年)、荒田別鹿我別を派遣し、百済の木羅斤資らと共に新羅を破る[19]


第13代王味鄒尼師今の時代(在位:262年 - 284年)

262年(神功皇后摂政62年)、新羅が朝貢しなかったので葛城襲津彦を派遣して討たせた[19]

272年(応神天皇3年)、百済辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰羽田矢代宿禰蘇我石川宿禰平群木菟宿禰が遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した[19]

277年(応神天皇8年)、百済の阿花王は王子の直支(とき)を人質として日本に送った[19]

283年(応神天皇14年)、弓月君百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の民が帰化を求めていますが、新羅人が阻むため、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、加羅国の弓月の民を召したが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった[19]


第14代の王儒礼尼師今の時代(在位:284年 - 298年)

285年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた[27][19]

285年(応神天皇16年)、百済の阿花王が薨去した。日本に人質として滞在していた直支が帰国して王となった[19]

287年4月、倭人が一礼部[28]に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った[18]

292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉?の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した[18]

294年、倭兵が長峯城を攻略した[18]。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。

297年、伊西国[29]に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した[18]

297年(応神天皇28年)、高句麗王が遣使し朝貢した。その上表文に「高麗王教日本國也」とあった。太子の菟道稚郎子は無礼を怒り、高句麗の使者を責め、表を破った[19]


第15代の王基臨尼師今の時代(在位:298年 - 310年)

300年1月、倭国と使者を交わした[18]

307年、国号を新羅に戻した[30]


第16代の王訖解尼師今の時代(在位:310年 - 356年)

312年国王が王子の通婚を要求[18]。王子ではないが、阿?(6等官)の急利[31]の娘を嫁として送った[18]

323年仁徳天皇11年)、新羅が朝貢に参じる[19]

329年(仁徳天皇17年)、新羅が朝貢を怠る。9月、砥田宿禰と賢遺臣を派遣して詰問すると、新羅は貢納を果たした[19]

344年、倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして断った[18]

345年、倭国は怒り、国書を送って国交断絶[18]

346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した[18]。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐?の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする[32]

353年仁徳天皇41年)、天皇の命で紀角宿禰が百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送った[19]


新羅17代王奈勿尼師今の時代(在位:356年 - 402年)

356年奈勿尼師今が即位。新羅の実質上の建国年とも。

364年4月、倭軍が侵入[18]。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧?(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする[33]

365年仁徳天皇53年)5月、新羅が朝貢を怠ったため竹葉瀬田道を派遣し征伐。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四つの村の民を捕虜として連れ帰る[19]

391年辛卯年)倭が海を渡って百済(百残)・加羅(二字不明で異説あり)・新羅を破り、倭国の臣民となした[34]

392年正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は高句麗を恐れ、王族の伊?(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として差し出した[18]。秋7月、高句麗王好太王が4万の兵で百済北の国境を攻め、石?など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗は百済の関彌城を落とした。百済の辰斯王が11月、狗原の行宮にて死去した[35]

393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた[18]
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