三韓征伐
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

また、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると石穴で自殺したともいう[9]

葛城襲津彦については、神功代以降も、次のような記録がある。「葛城襲津彦」を参照

応神14年 百済の弓月君が誉田天皇に対し、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、3年、音沙汰もなくなった。

応神16年8月、天皇は平群木菟宿禰的戸田宿禰に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。

仁徳天皇41年3月、紀角宿禰に無礼をはたらいた百済王族の酒君(さけのきみ)を、百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させる。

以上の記述において日本書紀の紀年を記載したが、日本書紀の紀年論にみられるごとく年代はいまだ確定していない。そのため、神功皇后の活躍、三韓征伐のあった年代および、その史実の妥当性についての研究が続いている。

紀年については、『日本書紀』は百済三書の一つ『百済記』を参照または編入している[10]。百済記の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運=120年)繰り上げて書いているとされており、百済記もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる[10]。また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている[10]。いずれにせよ、紀年にみる神功皇后の生涯(成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は歴史的遺物である好太王碑および百済記」の記載とは80年ないし120年差がある。

井上光貞によれば、日本書紀の編纂者は神功皇后魏志倭人伝にあらわれる三世紀に実在されたとする卑弥呼に比定するために、干支を2回繰り上げたとしている[10]。「百済三書」も参照
その他の記録

続日本紀』には、来新羅使(752年6月)の前で神功皇后説話を聞かせて立腹させたという記事もある。

先代旧事本紀』には、新羅に攻め入るとき神功皇后の他に妹のトヨヒメが登場し、女性であるにもかかわらず鎧をまとっている様を、新羅人が嘲笑った様子が描かれている。
八幡愚童訓「八幡愚童訓」も参照

13世紀末から14世紀初頭に成立した八幡神の縁起書である八幡愚童訓[11]甲本には、

皇后、新羅・百済・高麗三箇ノ大国ヲ女人ノ為御身、纔以小勢不経日数不廻時尅責靡テ、御帰朝アリシ勇々シサハ、戒日大王ノ五竺ヲ随ヘ、秦ノ始皇帝ノ 六国ヲ滅シ、越王ノ夫差ヲ討ジテ会稽ノ恥ヲ雪シヨリモ勝タリ。異国ニ向シ士率ハ旧 里ニ帰ル悦アリ。此土ニ残ル人臣ハ本主ヲ得タル勇アリ。異国ノ合戦ニ討勝事ハ雖毎度事也、敵国帰伏シテ日本ノ犬ト成リ、奉備年貢事、皇后ノ外ハ御坐サズ

とあり、新羅・百済・高麗の「三箇ノ大国」として記されている。
太平記「太平記」も参照

南北朝末期の『太平記』巻三十九「神功皇后攻新羅給事(しらぎをせめたまうこと)」では、『八幡愚童訓』と同じように神の加護で新羅征討をなしとげたとあるが「三韓の夷(えびす)」という語が新たに登場し、その三韓は同時代の高麗と理解されている[12]
各国史書による関連記録

この節の加筆が望まれています。

倭国が新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書『三国史記』新羅本紀や高句麗における広開土王碑文などにも記されており、2011年には新羅の朝貢国であったと記されている梁職貢図が新たに発見されている。
「三韓」および新羅について「新羅」、「辰韓」、および「東北工程」も参照

新羅は紀元前2世紀末から4世紀にかけて存在した辰韓の後継国家とされる。辰韓は馬韓弁韓とあわせて三韓とよばれる。なお『日本書紀』および唐[13]では、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を三韓と呼ぶ。

辰韓秦韓とも呼ばれ、中国の秦朝の労役から逃亡してきた秦人の国といい、言語も秦人(中国人)に類似していたといわれる(『晋書』辰韓伝[14]および『北史』新羅伝[15])。従って、辰韓(秦韓)の民は、中国からの移民とされるが[16]、中国政府系の研究機関中国社会科学院は、辰韓を中国の秦の亡命者が樹立した政権で、中国の藩属国として唐が管轄権を持っていたとしており、議論になっている[17]
概史・年表

この節の加筆が望まれています。

以下、各国史書に基づき、三韓征伐に関する、新羅倭国百済ほかの歴史を概説する[18][19]。なお、年代は計算によっても異なるので、三韓征伐を現時点で特定できない以上、新羅と倭国はじめ関係諸国の史書における記録を網羅する。

新羅初代王赫居世居西干の時代(在位:紀元前57年 - 紀元後4年)

紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公がいた[18]


2代王南解次次雄の時代(在位:4年 - 24年)

14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した[18]。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった[18]


第4代新羅王の脱解尼師今の時代(在位57年-80年

脱解尼師今は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ[18]、この多婆那国は日本列島の丹波国に比定される事が多い[20]。脱解尼師今の出身氏族である昔氏は倭国と交易していた倭人の氏族とされる[21]

73年倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島[22])に進入してきたので、角干(1等官の伊伐?の別名)の羽烏(うう)を派遣したが敗れ、羽烏は戦死した[18]

77年には伽耶と戦って大勝した阿?(6等官)の吉門を波珍?(4等官)に引き上げた[18]


第5代新羅王の婆娑尼師今の時代(在位80年-112年

倭国に服属した新羅王(波沙寐錦、はさむきむ)のことを指すともいわれる[23]。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷之寐錦」としていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいう[24]法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとする説もある[25]。なお、法興王の前代の智証麻立干(500-514年)の時代に国号を新羅、君主号を王に定めた[18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:120 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef