三韓征伐
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二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた[27][19]

285年(応神天皇16年)、百済の阿花王が薨去した。日本に人質として滞在していた直支が帰国して王となった[19]

287年4月、倭人が一礼部[28]に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った[18]

292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉?の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した[18]

294年、倭兵が長峯城を攻略した[18]。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。

297年、伊西国[29]に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した[18]

297年(応神天皇28年)、高句麗王が遣使し朝貢した。その上表文に「高麗王教日本國也」とあった。太子の菟道稚郎子は無礼を怒り、高句麗の使者を責め、表を破った[19]


第15代の王基臨尼師今の時代(在位:298年 - 310年)

300年1月、倭国と使者を交わした[18]

307年、国号を新羅に戻した[30]


第16代の王訖解尼師今の時代(在位:310年 - 356年)

312年国王が王子の通婚を要求[18]。王子ではないが、阿?(6等官)の急利[31]の娘を嫁として送った[18]

323年仁徳天皇11年)、新羅が朝貢に参じる[19]

329年(仁徳天皇17年)、新羅が朝貢を怠る。9月、砥田宿禰と賢遺臣を派遣して詰問すると、新羅は貢納を果たした[19]

344年、倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして断った[18]

345年、倭国は怒り、国書を送って国交断絶[18]

346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した[18]。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐?の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする[32]

353年仁徳天皇41年)、天皇の命で紀角宿禰が百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送った[19]


新羅17代王奈勿尼師今の時代(在位:356年 - 402年)

356年奈勿尼師今が即位。新羅の実質上の建国年とも。

364年4月、倭軍が侵入[18]。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧?(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする[33]

365年仁徳天皇53年)5月、新羅が朝貢を怠ったため竹葉瀬田道を派遣し征伐。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四つの村の民を捕虜として連れ帰る[19]

391年辛卯年)倭が海を渡って百済(百残)・加羅(二字不明で異説あり)・新羅を破り、倭国の臣民となした[34]

392年正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は高句麗を恐れ、王族の伊?(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として差し出した[18]。秋7月、高句麗王好太王が4万の兵で百済北の国境を攻め、石?など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗は百済の関彌城を落とした。百済の辰斯王が11月、狗原の行宮にて死去した[35]

393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた[18]

397年、百済の阿?王は王子腆支を人質としてに差し出し服属した(『三国史記』百済本紀)。

399年永楽9年)、百済高句麗との誓いを破って倭と和通したため[34]、高句麗王は百済を討つため平壌に侵攻した。同じ頃、新羅は倭軍が国境を越えて城を攻略し民を奴客となし、首都を囲んでいるため、高句麗に救援を求めた。新羅の長が自ら使者として高句麗王に拝謁し「多くの倭人が新羅に侵入して城を落とし首都を囲んでいる」と窮状を訴え、高句麗の臣下になる事を願い出たので、大王は救援することにした[34]

400年(永楽10年)、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する[34]。このとき新羅の首都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると、倭軍は任那加羅まで後退を始め高句麗軍は後を追った[34]。ところが、倭傘下の安羅軍などが逆を突いて、新羅の首都を占領した[34]


新羅18代王実聖尼師今の時代(在位:402年 - 417年)

402年、三月、新羅が倭国と通好し、新羅は奈勿尼師今の子、未斯欣を人質として倭に送った[18]

404年(永楽14年)、帯方界で倭軍の攻撃を受けるが高句麗は撃退した[34]

405年、倭兵が明活城を攻める[18]

405年、百済の阿?王が薨去し、倭国の人質になっていた腆支が帰国して即位した(『三国史記』百済本紀)。

407年、春3月、倭人が東辺を侵し、夏6月にまた南辺を攻める[18]


新羅19代王訥祇麻立干の時代(在位:417年 - 458年)

418年、人質の未斯欣が倭国から逃げ帰った[18]


倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事

413年から478年まで、倭国の倭の五王は、東晋朝貢し、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた[36]438年までに倭王讃を継承した弟の珍は「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称し[37]、同年4月に宋の文帝は珍を「安東将軍倭国王」とした[38]


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