三韓征伐
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^ 山川出版社「山川日本史小辞典改訂新版」によれば神功皇后は記紀伝承上の人物であり、朝鮮出兵の説話は「6世紀後半以後に現在のかたちにまとめられた可能性が強い。しかし朝鮮半島との関係についての「日本書紀」の記事には、百済からの七枝刀(ななつさやのたち)献上の話など、干支二運、すなわち120年くり下げると史実にあうものがあることも指摘されている」としている。コトバンク・山川出版社・山川日本史小辞典改訂新版「神功皇后」[3]
^ 儺はナ、ダとも読む。 ⇒[4]
^ 日本書紀(二)、岩波文庫,131頁
^ 初等科国史1943年版上巻
^風土記日本古典文学大系2,秋本吉郎校注、岩波書店,1958年(1991年第35版),482-483頁。
^ 日本書紀(二)、岩波文庫,2001年,173頁
^ 以上、日本書紀神功62年条百済記からの注釈
^ a b c d 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中公文庫、2007年,278-279頁,「百済記」については特に382-384頁
^日本思想大系』「寺社縁起」の巻に収録
^ 村井(1999)
^ 『旧唐書』百済伝
^ 辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、馬韓割其東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。(辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって秦の逃亡者で、馬韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているので、あるいはこれを秦韓とも言う。)
^ 「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界以居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。)」『北史』新羅伝
^ 水谷千秋『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁
^ 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院朝鮮日報 2007年6月4日。東北工程参照。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年。新羅本紀
^ a b c d e f g h i j k l m n o 岩波文庫「日本書紀」二(1994年、2001年第八版)。
^ 上垣外 2013, p. 70.ほか但馬国、肥後国玉名郡とも比定される
^ 上垣外 2013, p. 73.
^ 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年、訳注
^日本書紀』巻九・神功皇后摂政前紀。
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