三韓征伐
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神功皇后 摂政5年(205年または325年)3月7日に新羅王の使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしかんき)の妻子が奴婢とされたので返還を求めるとしてきた。神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。怒った襲津彦は、毛麻利叱智ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し、草羅城(くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である。
神功皇后46年以降

神功皇后46年以降は『百済記』が構文されている。[8]神功皇后46年(246年または366年)3月1日、斯麻宿禰卓淳国に遣す。卓淳王の末錦旱岐は、百済の久?弥州流莫古らが日本に朝貢したいと斯麻宿禰に伝えた。斯麻宿禰は、爾波移と卓淳人の過古を百済に遣した。百済の肖古王(近肖古王)は喜んだ。王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち斯麻宿禰らは日本へ帰還した。翌年4月、百済は日本に朝貢した。

神功皇后49年(249年または369年)3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。比自?(ひじほ)、南加羅、?国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。

神功皇后51年(251年または371年)3月、百済は久?を派遣し、日本に朝貢した。

神功皇后52年(252年または372年)9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を献上した。
葛城襲津彦の新羅征討

神功皇后62年(262年または382年)、葛城襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。

百済記』によれば壬午(382)年、新羅は日本に朝貢しなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し、新羅を討伐した。しかし、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼす。加羅国王己早岐、児白久至らは、百済に亡命する。加羅国王の妹既殿至は、大倭(やまと)の天皇に直訴すると、天皇は怒って、木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻め、加羅を戻した。また、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると石穴で自殺したともいう[9]

葛城襲津彦については、神功代以降も、次のような記録がある。「葛城襲津彦」を参照

応神14年 百済の弓月君が誉田天皇に対し、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、3年、音沙汰もなくなった。

応神16年8月、天皇は平群木菟宿禰的戸田宿禰に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。

仁徳天皇41年3月、紀角宿禰に無礼をはたらいた百済王族の酒君(さけのきみ)を、百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させる。

以上の記述において日本書紀の紀年を記載したが、日本書紀の紀年論にみられるごとく年代はいまだ確定していない。そのため、神功皇后の活躍、三韓征伐のあった年代および、その史実の妥当性についての研究が続いている。

紀年については、『日本書紀』は百済三書の一つ『百済記』を参照または編入している[10]。百済記の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運=120年)繰り上げて書いているとされており、百済記もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる[10]。また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている[10]。いずれにせよ、紀年にみる神功皇后の生涯(成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は歴史的遺物である好太王碑および百済記」の記載とは80年ないし120年差がある。

井上光貞によれば、日本書紀の編纂者は神功皇后魏志倭人伝にあらわれる三世紀に実在されたとする卑弥呼に比定するために、干支を2回繰り上げたとしている[10]。「百済三書」も参照
その他の記録

続日本紀』には、来新羅使(752年6月)の前で神功皇后説話を聞かせて立腹させたという記事もある。

先代旧事本紀』には、新羅に攻め入るとき神功皇后の他に妹のトヨヒメが登場し、女性であるにもかかわらず鎧をまとっている様を、新羅人が嘲笑った様子が描かれている。
八幡愚童訓「八幡愚童訓」も参照

13世紀末から14世紀初頭に成立した八幡神の縁起書である八幡愚童訓[11]甲本には、

皇后、新羅・百済・高麗三箇ノ大国ヲ女人ノ為御身、纔以小勢不経日数不廻時尅責靡テ、御帰朝アリシ勇々シサハ、戒日大王ノ五竺ヲ随ヘ、秦ノ始皇帝ノ 六国ヲ滅シ、越王ノ夫差ヲ討ジテ会稽ノ恥ヲ雪シヨリモ勝タリ。異国ニ向シ士率ハ旧 里ニ帰ル悦アリ。此土ニ残ル人臣ハ本主ヲ得タル勇アリ。異国ノ合戦ニ討勝事ハ雖毎度事也、敵国帰伏シテ日本ノ犬ト成リ、奉備年貢事、皇后ノ外ハ御坐サズ


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