三韓征伐
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各国史書による関連記録

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倭国が新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書『三国史記』新羅本紀や高句麗における広開土王碑文などにも記されており、2011年には新羅の朝貢国であったと記されている梁職貢図が新たに発見されている。
「三韓」および新羅について「新羅」、「辰韓」、および「東北工程」も参照

新羅は紀元前2世紀末から4世紀にかけて存在した辰韓の後継国家とされる。辰韓は馬韓弁韓とあわせて三韓とよばれる。なお『日本書紀』および唐[13]では、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を三韓と呼ぶ。

辰韓秦韓とも呼ばれ、中国の秦朝の労役から逃亡してきた秦人の国といい、言語も秦人(中国人)に類似していたといわれる(『晋書』辰韓伝[14]および『北史』新羅伝[15])。従って、辰韓(秦韓)の民は、中国からの移民とされるが[16]、中国政府系の研究機関中国社会科学院は、辰韓を中国の秦の亡命者が樹立した政権で、中国の藩属国として唐が管轄権を持っていたとしており、議論になっている[17]
概史・年表

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以下、各国史書に基づき、三韓征伐に関する、新羅倭国百済ほかの歴史を概説する[18][19]。なお、年代は計算によっても異なるので、三韓征伐を現時点で特定できない以上、新羅と倭国はじめ関係諸国の史書における記録を網羅する。

新羅初代王赫居世居西干の時代(在位:紀元前57年 - 紀元後4年)

紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公がいた[18]


2代王南解次次雄の時代(在位:4年 - 24年)

14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した[18]。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった[18]


第4代新羅王の脱解尼師今の時代(在位57年-80年

脱解尼師今は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ[18]、この多婆那国は日本列島の丹波国に比定される事が多い[20]。脱解尼師今の出身氏族である昔氏は倭国と交易していた倭人の氏族とされる[21]

73年倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島[22])に進入してきたので、角干(1等官の伊伐?の別名)の羽烏(うう)を派遣したが敗れ、羽烏は戦死した[18]

77年には伽耶と戦って大勝した阿?(6等官)の吉門を波珍?(4等官)に引き上げた[18]


第5代新羅王の婆娑尼師今の時代(在位80年-112年

倭国に服属した新羅王(波沙寐錦、はさむきむ)のことを指すともいわれる[23]。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷之寐錦」としていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいう[24]法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとする説もある[25]。なお、法興王の前代の智証麻立干(500-514年)の時代に国号を新羅、君主号を王に定めた[18]


第6代新羅王の祇摩尼師今の時代(在位:112年 - 134年)

121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した[18]

翌年123年3月に倭国と講和した[18]


第8代新羅王の阿達羅尼師今の時代(在位:154年 - 184年)

158年、倭人が来訪する[18]

173年5月、倭の女王卑彌乎が新羅に使者を送る[18]。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条からの造作で、かつ干支を一運遡らせたとする説もある[26]


第9代新羅王の伐休尼師今の時代(在位:184年 - 196年)

193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した[18]


第10代王奈解尼師今の時代(在位:196年 - 230年)

200年仲哀天皇9年)天皇崩御後、応神天皇を身籠っていた神功皇后は対馬より半島に至り、新羅王都に到る。新羅王の波沙寐綿は抵抗することなく降伏し、微叱己知波珍干岐を人質に出し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと誓約した[19]。なお、古事記は仲哀天皇崩御を362年とする。

205年(神功皇后摂政5年)人質の微叱旱岐が新羅に逃げ帰った[19]

208年夏4月、倭人が国境を侵す[18]。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。


第11代王助賁尼師今の時代(在位:230年 - 247年)

232年4月に倭人が首都金城に攻め入った[18]。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。

233年5月、倭人が東部国境に侵入[18]。同7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。


第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 - 261年)

249年夏4月、倭人が昔于老を殺害[18]

249年(神功皇后摂政49年)、荒田別鹿我別を派遣し、百済の木羅斤資らと共に新羅を破る[19]


第13代王味鄒尼師今の時代(在位:262年 - 284年)

262年(神功皇后摂政62年)、新羅が朝貢しなかったので葛城襲津彦を派遣して討たせた[19]

272年(応神天皇3年)、百済辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰羽田矢代宿禰蘇我石川宿禰平群木菟宿禰が遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。


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