三船敏郎
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1941年、三船は牡丹江の第八航空教育隊に転属となったが、すでに引き揚げ準備が進行していたため日本に戻り、滋賀県八日市飛行場に写真工手として配属された[9][12]。三船は偵察機赤外線カメラで撮影した航空写真を組み合わせ、敵地の地図を作成するという仕事に従事し、戦地に赴くことはなかった[10][12]。しかし、三船は上官に対して反抗的な態度を取っていたため、終戦まで上等兵のまま過ごした[10]。三船は炊事場の責任者でもあり、よく仲間のために料理を作って酒盛りを始め、酔うと必ずバートン・クレーンの「酒が飲みたい」を唄った[13][14]。後輩兵だった鷺巣富雄(うしおそうじ)によると、古参兵の三船は初年兵をよくかばったりするなど面倒見がよく、少年兵がいじめられているのも見過ごせず、上官が相手でも「お互い階級章を外して、人間対人間で行こう」と喧嘩腰になったこともあったという[14][15]

1945年、三船は熊本県上益城郡(現在の熊本市南区城南町隈庄)の小さな特攻隊基地である隈庄飛行場の飛行第百十戦隊に配属された[7]。そこで沖縄の特攻作戦に向かう少年航空兵たちを教育し、彼らが出陣する前に遺影を撮影した[7][12]。三船は料理の事務もしていたため、翌日に出撃する少年兵のために、なけなしの食糧からすき焼きを作って食べさせたり、酒を飲ませたり、ヒロポンを打って興奮状態にさせたりして送り出した[16]。少年兵が飛び立つ時には、「『天皇陛下万歳!』なんて言うな。恥ずかしくないから『お母ちゃん!』と叫べ」と言ったという[17]。やがて沖縄の特攻隊基地が手薄になり、同地に派遣されることが決まったが、その矢先に8月15日の終戦を迎えた[12]。それまでに両親は亡くなり、弟の芳郎も招集されたため行方が分からず、妹の君子も安否不明だった。それ以外の親戚もおらず、大連の写真館も爆撃で焼け落ちていたため、三船には帰る場所と迎えてくれる家族がいなかった[12][18]
東宝ニューフェイス

終戦で除隊した三船は、軍隊から二枚の毛布を貰い、汽車に乗って原隊の滋賀県まで向かった[16]。しばらく琵琶湖辺りで遊んでいたが、東京出身の初年兵に誘われて田園調布に居着いたあと、兵隊仲間と横浜磯子で生活し、芳郎や君子と再会した[16][19]。その後、芳郎は明治大学に進学したあと自衛隊に入隊し、君子はハワイに住む日系人と結婚した[20]。三船は横浜で進駐軍が飲むコカ・コーラの原液が入ったドラム缶を運ぶ肉体労働に従事していたが、それだけでは将来が不安なため、東宝撮影所撮影部に所属する大山年治を訪ねた[16]。大山は三船の航空教育隊時代の先輩兵で、当時大山に「満期除隊したら俺を訪ねてこい、撮影助手に使ってやるから」と誘われていたが、戦況の悪化で満期除隊がなくなり、その話は口約束のままとなっていた[14][21]。大山を訪ねた三船は、約束の撮影助手採用を頼み込んだが、東宝撮影部は定員がいっぱいで空きがなかった[21]。そこで大山は、ちょうど募集していた第1回東宝ニューフェイスに合格して入社すれば、あとで空きが出たときに撮影部に入れてあげると助言し、三船はその言葉を信じて渋々ニューフェイスの試験を受けることに決めた[22]

1946年6月、三船はニューフェイスの面接試験を受けたが、審査員に「泣いてみろ」と言われても「悲しくないのに泣けません」と言い返したりするなど、不機嫌な態度を取ったため顰蹙を買った[22][23]。試験会場に居合わせた高峰秀子によると、三船の振る舞いはほとんど無礼に近く、審査員の質問にはロクに返事もしなかったというが、そんな三船のふてくされた態度は「照れ隠しだった」としている[24]。最終的に三船は補欠で採用されることになり、応募者4000人の中から選ばれた、男性16人、女性32人の合格者の一人となった[25][26]。同期には堀雄二伊豆肇堺左千夫久我美子若山セツ子岸旗江、のちに三船の妻となる吉峰幸子などがいた[27]。しかし、三船のニューフェイス採用の経緯については諸説ある。

黒澤明によると、審査委員長の山本嘉次郎は三船を推していたが、当時の東宝は労働組合の発言力が強く、審査委員も映画製作者側と組合側の半数ずつで構成されており、その投票による決議で不合格となったため、黒澤たちが「俳優の資質を見極めるのに専門家と門外漢(組合側)が同じ一票ではおかしい」と抗議し、結局山本が「監督として責任を持つ」と発言したことで合格になったという[28]。東宝宣伝部の斎藤忠夫も、三船採用を山本が唱え出したが、反対を唱える人もおり、山本の主張を後押ししたのは黒澤などだったとしている[29]

撮影監督の山田一夫によると、大山に紹介された三船を見て、頑丈そうな体格のため撮影部で使えると思い、山本に頼んで試験を受けさせたが不合格となり、審査員の一人である撮影監督の三浦光雄とともに再度山本に採用を頼み、「ニューフェイスの末席にでも彼を置いて欲しい、撮影助手が必要になれば撮影部で引き受けるから」ということで話がつき、採用されたという[30]。撮影課の前田実によると、三船の採否で糾弾していた時に、三船の本当の人柄を知る大山の証言を山本に伝えたのが採用につながったとしている[29]。三船本人によると、一回不合格となったあと、三浦の口添えでもう一回試験をすることになったというが[29]、山本が拾ってくれたことについては否定し、「山嘉次先生(山本嘉次郎)は僕を落としたほうですよ。態度悪いと言って…」と述べている[25]
映画俳優としての活躍七人の侍』(1954年)用心棒』の演技によりヴェネツィア国際映画祭男優賞を受賞。三船と黒澤明(1961年9月7日)

1946年7月、三船は田中栄三が校長を務める俳優養成所に入り、半年の養成期間を過ごした[31]。その間に斎藤寅次郎監督の『婿入り豪華船』にエキストラでの出演が決まり、井戸の中に落ちる男性の役を貰ったが、三船の体重が重すぎて釣瓶が持ち上がらず、役を交代させられた[29]


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