三筆
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各時代の三筆の活躍嵯峨天皇(三筆の立役者[18]崔子玉座右銘』(部分、空海筆)
三筆

延暦13年(794年)、桓武天皇は都を移して平安京をつくり、最澄・空海・橘逸勢らを入唐させて新しい仏教をもたらすなど刷新を図った。そして、その成果は嵯峨天皇の時に開花した。

平安時代初期は遣唐使により中国文化が直接日本に招来し、当時中国で流行していた東晋時代王羲之たちの書法唐人書跡などが伝えられた。これらは宮廷社会で愛好され、学習されたことから晋唐の書風が流行し、嵯峨天皇も唐風を好み、最澄・空海・橘逸勢らとともに晋唐の書に範をとった[18][19]

弘仁9年(818年)、嵯峨天皇は大内裏門額を書き直すことを考え、自らは東の三門(陽明門・待賢門・郁芳門)を書き、南の三門(皇嘉門・朱雀門・美福門)を空海、北の三門(安嘉門・偉鑒門・達智門)を橘逸勢に書かせた。そして、この門額を書いた3人を平安時代初期第一の能書としてあがめるようになり、江戸時代中期ごろから三筆と尊称されるようになった。三筆は晋唐の書の模倣だけに止まらず、唐風を日本化しようとする気魄ある書を遺した。特に空海は三筆の領袖というべき人物であり、後世に及ぼした影響は大きく、日本書道史上最大の存在といっても過言ではない。その空海の書を祖とした書流大師流と呼ばれる[1][18][19]
世尊寺流の三筆『白楽天詩巻』(部分、藤原行成筆、東京国立博物館蔵)

世尊寺家初代当主・藤原行成、第8代当主・世尊寺行能、第12代当主・世尊寺行尹の3人は、後世、世尊寺流の三筆と呼ばれた。
始祖・行成

平安時代中期、唐の衰頽にともない遣唐使が廃止され、国風文化の確立によって仮名が誕生した。そして、漢字は仮名に調和させるため、中国書法とは趣を異にした日本的な書法に変化、つまり和様化された。その和様書道の開祖は小野道風、完成者は藤原行成といわれる。

行成は道風の書を受け継ぎ、洗練を重ねて独自の書の世界を展開し、一条朝から白河鳥羽朝までの130?140年間は行成の書風が一世を風靡した[20]。その書風は、後世、世尊寺流と呼ばれ、和様書道において最も根幹的な役目を果たした流派となり、後の法性寺流持明院流御家流を生んでいる[19][21][22][23]

行成の代表作『白楽天詩巻』は、道風の重厚鈍重さと、佐理の極端な抑揚法を取り去り、中国風を完全に消し去っている。それは平衡がとれた和様の書の基準的な書きぶりに至っており、女手の『寸松庵色紙』とともに日本書道史上の頂点に位置する[23][24][25]
中興の祖・行能

書道は平安時代中期まで全盛を極めたが、平安時代末期から鎌倉時代にかけて貴族階級の没落にともなって甚だしく衰微し、和様書は分派してさまざまな書流を形成した。特にこの時期から武士が台頭しはじめ、天下の気風は一時に変わり、惰弱・優美なものから、質実・剛健なものになった。その勇猛な気質は文化面にも及び、上代様(完成者は行成)の端正優美な書風に力強さを加えた関白藤原忠通の書は法性寺流と呼ばれ、脚光を浴びるようになった。

法性寺流の尊重により世尊寺流は沈淪していたが、世尊寺家中興の祖といわれる第8代・行能が世尊寺流の名誉を恢復した。行能は当時、屈指の能書であり、藤原定家の『明月記』に、「当時能書の人々」(5人)の一人として謳われている。また、当時の人が、「行成卿八代の後をさづく、王羲之七代の孫(智永)に似たり、わが朝の伯英(張芝)といふべし。」[26]と評している。

行能は先祖・行成が自邸を改築して「世尊寺」と称したことに因んで、それを自家の家名とした。このことから、後世、書流名として呼ばれるようになった。また、行能は、書論『夜鶴書札抄』の著者としても知られ、第6代・伊行の書論『夜鶴庭訓抄』を根底に置いて独自の書論を遺している[27][28][29][30][31][32][33][34]
行房・行尹兄弟と尊円法親王

行能以後、世尊寺流は定型化、形式化の傾向が顕著となり、しばらく年とともに衰えてゆくが、そのような中、世尊寺流でも有数の能書である第11代・行房が出て後醍醐天皇の寵愛を受けた。しかし、若くして戦死自刃)したため、弟の行尹が第12代として家を継いだ。この行房・行尹兄弟は、後に書論『入木抄』の著者として知られる尊円法親王に書法の指導を行い、やがて尊円法親王は御家流を創始するに至る。これについて『入木口伝抄』の奥書に、「応長元年(1311年)、伏見天皇は尊円法親王(当時14歳)に第10代・経尹(つねただ)から入木道秘伝を伝授させようとしたが、経尹は老齢(当時65歳)のため、行尹(当時26歳)に代行させた。(趣意)」とある[30][35][36]
世尊寺家の終焉

享禄5年(1532年)、第17代・行季(ゆきすえ)のとき、500年以上続いた世尊寺家は後嗣なく断絶した。後奈良天皇は深くこれを惜しみ、第16代・行高(ゆきたか)から相伝を受けた持明院基春に後を継がせたが、その後は世尊寺流といわず、持明院流といった。世尊寺流は書道の正統的な一流として極めて権威ある存在であったが、書道的に価値の高い作品を遺したのは、第6代・伊行までで、その後は伝統の形骸を守ったに過ぎない感がある[23][31][37][38]
寛永の三筆『蓮下絵和歌巻断簡』(本阿弥光悦筆、俵屋宗達画、東京国立博物館蔵、縦33.3cm×横77.6cm[39]

室町時代は戦乱につぐ戦乱に明け暮れた時代で、京都公卿が所領と権威を失い、下国せざるを得ない状態になった。その中で彼らの生活権を保持するものは伝統的な芸能・家職の伝授ぐらいのもので、書道もまた重要な財源の一つとなった。よって、家々は競って書流を立て、おびただしい流派が乱立した。

世尊寺流や飛鳥井流、御家流勅筆流、あるいは三条流ほか多くの書流名があげられ、その数、50を数えるほどであった。が、どれもが似たり寄ったりの弱々しい書風でしかなく、書流が形式化した。こうした書にあきたらぬものを感じたのが、寛永の三筆と称される本阿弥光悦近衛信尹松花堂昭乗の3人であった[40][41]


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