「上達したい」という欲求の答えは、舞台活動の中に沢山あると直感的に気づかせてくれた[7]。そんな芝居を学ぶ道を示してくれた、最初の恩人が2年目のカリキュラムで講師を務めていた水鳥鐵夫だったという[7][13][22]。
卒業制作で同期らと上演した芝居の発表会で、当時は役者志望だったが、演出助手を任される[7][13][22]。仕事をしていくうちに、芝居を全体を俯瞰視して作っていく考え方を初めて構築することが出来て、「役者はこの役をこういう風に演じたいようだけれども、演出家の演出意図はこうなんです」を伝えていくうちに、演出家が舞台全体を見てダメ出しをしていることに気付いて、役者としての三石の勉強になり、役ごとの役割を意識出来るようになった[7]。
それまでは漠然と「もっとお芝居が上手くなりたい」という気持ちがあったが、経験をきっかけに「もっと舞台をやりたい」と思うようになった[7]。それで水鳥に、「この公演のあとも舞台のお芝居をやっていきたい、水鳥さんと一緒に劇団を作って、自分たちの芝居を向上させたい」と伝えていたが、「何言ってんだ」と一蹴されてしまった[7]。最初から「まず、自分たちだけでどれくらい出来るのかやってみろ」と手を貸してくれることはなかったが、そういうことを表向きは言いながらも、水鳥は優しいため、アドバイスはしてくれたという[7]。 1989年に北海道電力泊発電所安全PRビデオのレポーターでプロデビュー[10]。声優としては、『エースをねらえ! ファイナルステージ』の友代役でデビュー[9][10]。翌1990年に、おもちゃショーのセガのブースでナレーターコンパニオンとして参加[23]。
キャリア