三石琴乃
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その中で将来について考え直したところ、自分がよくラジオドラマを聞いていたことや、小学5年生から放送委員会に入って「マイクで喋ること」に親しんでいたこと[17] から、声優という職業に興味を持つ[10]。本格的なきっかけとなったのは、高校3年生の夏休みに参加した声優養成所主催のサマースクールが楽しいと思えたからと話している[10]。学生時代は引っ込み思案だったため、当時を知る者の中には後に声優となった三石を不思議に思う者もいた[18]サンシャイン60エレベーターガールやスポーツクラブの受付などのアルバイトをしながら勉強を続け[19][20]、その後就職して東京都庁にも出向し、大気汚染調査の無線連絡係などを務めていた[21]。養成所入所当時は、「演技」の「え」の字も無知で、学ぶ気持ちはあったが、どこで何を吸収すれば良いのか分からなかった[7]。演劇を見にいくお金も無く、2022年時点でも「演技って何だろう?」と思いながら日々を過ごしているという[7]

「上達したい」という欲求の答えは、舞台活動の中に沢山あると直感的に気づかせてくれた[7]。そんな芝居を学ぶ道を示してくれた、最初の恩人が2年目のカリキュラムで講師を務めていた水鳥鐵夫だったという[7][13][22]

卒業制作で同期らと上演した芝居の発表会で、当時は役者志望だったが、演出助手を任される[7][13][22]。仕事をしていくうちに、芝居を全体を俯瞰視して作っていく考え方を初めて構築することが出来て、「役者はこの役をこういう風に演じたいようだけれども、演出家の演出意図はこうなんです」を伝えていくうちに、演出家が舞台全体を見てダメ出しをしていることに気付いて、役者としての三石の勉強になり、役ごとの役割を意識出来るようになった[7]

それまでは漠然と「もっとお芝居が上手くなりたい」という気持ちがあったが、経験をきっかけに「もっと舞台をやりたい」と思うようになった[7]。それで水鳥に、「この公演のあとも舞台のお芝居をやっていきたい、水鳥さんと一緒に劇団を作って、自分たちの芝居を向上させたい」と伝えていたが、「何言ってんだ」と一蹴されてしまった[7]。最初から「まず、自分たちだけでどれくらい出来るのかやってみろ」と手を貸してくれることはなかったが、そういうことを表向きは言いながらも、水鳥は優しいため、アドバイスはしてくれたという[7]
キャリア

1989年北海道電力泊発電所安全PRビデオのレポーターでプロデビュー[10]。声優としては、『エースをねらえ! ファイナルステージ』の友代役でデビュー[9][10]。翌1990年に、おもちゃショーのセガのブースでナレーターコンパニオンとして参加[23]。試演会で小さな芝居をして、水鳥に観てくれていたところ、演出家として関わってくれることになったため、同声優学院卒業後には高木ら同期と劇団あかぺら倶楽部を結成し、舞台活動を始める[7][13]

1991年には『ジャンケンマン』でのレギュラーを経験し、『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』のヒロイン、菅生あすか役を担当[9]1992年は大ヒットした『美少女戦士セーラームーン』で主人公の月野うさぎ(セーラームーン)の声を演じ[7]、人気と知名度を急上昇させた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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