三田佳子
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兵庫県宝塚市立宝塚第一小学校[5]、東京都大田区立池雪小学校[5]、東京都中野区立桃園第三小学校[5][9]東京女子美術大学付属中学校?高等学校卒業[5]

中学3年のとき、児童劇団「ちどり」に入り[5][8]、中学・高校時代から多数のテレビ・ラジオに出演[5]週刊誌表紙等を飾るようになり[9]、高校在学中から映画会社数社にスカウトされるが断り続け、高校を卒業した1960年春に東映ニューフェイスではなく[9]第二東映へ入社した[2]

同年、『殺られてたまるか』で18歳で女優デビュー[6]。この映画は東映が売り出しを決めていた波多伸二との共演予定であったが、波多がロケ地本田技研工業埼玉製作所内で22歳で事故死し[6][9][10]、三田はロケバスの窓から波多が飛ぶ影を見た[6][9][10]。事故から15日後に会社は新しい相手役に梅宮辰夫を抜擢[6][10]。気持ちの整理もつかず、大人社会の非情さに驚愕し、東京新聞に心情を吐露した[10]。当初から主役級で起用され、佐久間良子と並ぶ東映の看板女優としての扱いを受ける[5]

Vシネマの発案などで知られる東映プロデューサーの吉田達は[6]、三田を迎えに三田の小さな家に行ったとき、「この貧しい母子のために尽くしてやりたい」と三田派の急先鋒になった[6]東映東京撮影所(以下、東映東京)に、いつしか三田派と佐久間が生まれた[6]。東映入社当時は第二東映による粗製乱造時代で[10][11]、一年で14本映画を撮った年もあり[9][10]、毎日撮影が早朝から翌日の明け方まで続き、家に帰れないため、東映東京の近くの旅館に寝泊まりしていたという[10]。東映は段々、荒々しい男性路線に傾斜し始め[9][10]、女優も大人の女としての色気を要求された[9][10]東宝松竹に比べ、女性映画の数は少なく、たまにしか製作されなかった女性文芸路線では[10]1964年公開の『廓育ち』で社会派演技を見事にこなす。

1961年に文芸プロダクションにんじんくらぶに参加[12]

1967年に東映を退社しフリーとなった[5][13]。1967年の松竹『夜のひとで』で、無断でヌードすげ替えシーンを入れられ[9]、抗議すると映画界を干されかける[9]。以降はテレビ舞台を中心に活動した[2]。1973年にはNHK大河ドラマ黄金期の『国盗り物語』に出演した[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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