三浦泰村
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これは、秀郷流の故実に精通している下河辺氏が台頭してきたことについて、弓馬に通じ、幕府内でそれに関する儀礼を取り仕切ってきた泰村が危機感を覚えたがゆえに起こった出来事だと言われる[15]。さらに同年には三浦氏と小山氏の郎党が酒の席で乱闘騒ぎを起こし、当事者として泰村の弟の一人、三浦家村と、小山家の小山朝村[注 6]が出仕停止処分となり、泰村と小山長村結城朝広も叱責された[15]。宝治合戦直前の1247年3月3日には、泰村自身が闘鶏会の席で喧嘩騒ぎを起こしたと伝わる[15]

有名な話として、宝治合戦の直前、一旦北条時頼らとの間に和睦が成立しかけていた時、緊張のあまり食べていた湯漬けを嘔吐したという話がある。これは恐怖からではなく、合戦の回避を模索する為に精神を働かせた結果生じた、極度の緊張からの嘔吐であろうと解釈されている[17]。承久の乱や儀礼の場で武術の達者ぶりを披露している泰村だが、非常時・切迫した状況では判断力が鈍くなる人物であった[14]永井晋は「武者としては一流であるが、武将としての才能には恵まれていなかったのであろう」と評している[17]
画像集

三浦泰村一族の墓(鎌倉市西御門2‐5‐7白旗神社右隣)

筋替橋碑(鎌倉市雪ノ下3県道204号線沿い)

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『関東評定伝』の没年齢より逆算。
^ 『承久記』[2]
^ 史料では『吾妻鏡貞応3年(1224年7月18日条に父・三浦義村が「以愚息泰村男為御猶子」と述べている記事が見られ、『北條九代記』にも同様の記載がある。
^ 北条義時存命時にその猶子になっている[3]
^尊卑分脈』の系図では小山政光の弟で下河辺行義の兄。
^ 小山朝政の子で長村の叔父[16]

出典^ a b 『三浦泰村』 - コトバンク
^ a b 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)
^ a b c d e 『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「三浦泰村」の項(執筆:佐々木文昭)より。
^世界大百科事典 第2版』「三浦泰村」の項 より。
^ 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「三浦泰村」の項 より。
^ 五味文彦本郷和人・西田友広 編『現代語訳 吾妻鏡 9 執権政治』(吉川弘文館、2010年)。
^ a b吾妻鏡嘉禎2年(1236年)12月23日条
^ a b 『吾妻鏡』宝治元年(1247年)6月14日条
^ 「佐野本三浦系図」に「元服之時北条泰時加冠、授諱字」とある(『大日本史料』五之二十二 P.134)。貫達人 「円覚寺領について」(所収:『東洋大学紀要』第11集、1957年)P.21、野口実 「執権政権下の三浦氏」(所収:野口実『中世東国武士団の研究』(高科書店、1994年))P.321・P.344 脚注(26)・(29)、鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.40・238、 ⇒三浦一族の歴史 。横須賀市横須賀市の公式ホームページ内、最終更新日:2010年11月1日)、 ⇒北条氏の宿敵─三浦一族 にも同様の記述がある。
^ 『北条氏系譜人名事典』・1378頁
^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年。 ISBN 978-4-86602-090-7 P156・256-259.
^ 永井晋『鎌倉幕府の転換点』(NHKブックス、2000年)
^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、P317-365。
^ a b c d 『北条氏系譜人名事典』・378頁


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