三浦弥平
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この公民館は、スポーツや文学に関する資料・書籍も並べて巡回文庫としての活動も行い[7]、農閑期には書道や裁縫の講座を開き[7]、農繁期には子供を預かる季節保育所となる[7][1]など、地域コミュニティを結びつける役割を担った。このほか三浦は、白根体育クラブの育成[1]、多くのマラソン大会の開催にあたり[2]、白根村教育委員を務める[2]など、郷里のスポーツ・教育に関わった。東京オリンピック誘致運動にも参加し、1964年東京オリンピック開会式に招待されている[2]

1971年4月、80歳で死去[2]。伊達市梁川町白根字高田に墓所がある[6]
記念

1980年からは伊達市内にて毎年彼の業績を記念した、三浦弥平杯伊達市梁川ロードレース大会が開催されている。

三浦の記念碑が2か所(白根地区の居宅跡と、阿武隈急行線梁川駅前)にある[6]

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 当時の尋常小学校は4年制。のち梁川町立白根小学校を経て伊達市立白根小学校。2017年閉校。
^ 関東インカレ。日本全国の大学の対校競技会である日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)はまだ開催されていない。
^ 25マイルは約40.23km。
^ 河野の自伝によれば「当時のオリンピック選手で、金栗さんと並び称された三浦弥平という人や、極東大会の千五百の選手だった生田喜代次という先輩」からの勧誘を受けた河野は「オリンピック選手という肩書に、田舎中学生の私はすっかり感激し、その場で勧誘に応じた」という[5]。ただし河野の入部は1919年(大正8年)で[5]、これは三浦のオリンピック出場前である。
^ ほかに金栗四三茂木善作八島健三
^ 当時マラソン競技の距離は一定しておらす、アントワープ大会では40.75kmであった。オリンピックのマラソン競技が42.195kmとなるのは1924年パリ大会から。
^ ほかに金栗四三、田代菊之助
^ 県境をまたいでいるが、白根村と筆甫村は隣村であり、松坂峠を越える交通路(現在の宮城県道・福島県道102号平松梁川線)で結ばれている。
^ 満州事変(1931年)・「満州国」建国(1932年)以来大陸情勢の緊迫は継続しているものの、日中戦争の勃発は1937年である。出典[2]のままとする。

出典^ a b c d e f “三浦弥平”. うつくしま電子事典. 福島県教育委員会. 2021年3月5日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai “福島県初のオリンピアン「三浦弥平」”. 伊達市. 2021年3月5日閲覧。
^ “ ⇒競走部の歴史 その輝かしい黎明期 明治40年(1907年)?大正15年(1926年)”. 明治大学体育会競走部. 2021年3月5日閲覧。
^ a b “夏季オリンピックと早稲田”. 早稲田大学競技スポーツセンター. 2021年3月5日閲覧。
^ a b c “第五編/第二十章 大正前期の体育/一 陸上運動会・水上運動会”. 早稲田百年史. 早稲田大学. 2021年3月5日閲覧。
^ a b c d e “特集 伊達の韋駄天 三浦弥平”. だて市政だより 2019年6月号. 伊達市. 2021年3月5日閲覧。
^ a b c “白根地区健康なまちづくり計画”. 白根地区健幸都市推進協議会. 2021年3月5日閲覧。

関連項目

1920年アントワープオリンピックの日本選手団

1924年パリオリンピックの日本選手団

外部リンク

福島県初のオリンピアン「三浦弥平」
- 福島県伊達市

三浦弥平 - Olympedia (英語)

三浦弥平 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語)










日本陸上競技選手権大会 男子マラソン優勝者
1910年代

13 金栗四三

14 金栗四三

15 金栗四三

16 加藤富之助

17 秋葉祐之


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