三浦半島
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やアシカ猟なども盛んだった時期があり[10]、現在では滅多に見られないヒゲクジラ類[11]ウバザメ[12][13]の様な大型生物も多数見られたとされ、絶滅したとされるニホンアシカも三浦半島の沿岸部に普遍的に生息していた[14]

しかし、一部のクジラ[注 6][8][15]イルカ[16][17]などは近年も三浦半島や江の島[18][19]の周囲で時折見られることがあり、とくに冬場はクジラと船舶との衝突の危険性が増加する可能性がある[20]
歴史

三浦半島では、旧石器時代(先土器時代)にあたる25000年前から人類が生活を始めていた[21][22]縄文時代遺跡では三浦市の諸磯貝塚や横須賀市の夏島貝塚茅山貝塚などが知られる[23]。また弥生時代には、三浦市赤坂遺跡などで拠点的な集落が営まれた[24]

古墳時代前期(4世紀)には逗子市と葉山町の境に長柄桜山古墳群が築かれた[25]。また三浦市や横須賀市にも古墳群や横穴墓が造られた[26]

古代律令制度では、東海道相模国に属する。『日本書紀』には「御浦」(みうら)と記されている。

中世には頼朝の挙兵に従った三浦氏の領国であった。三浦氏は北条時頼の時代に宝治合戦で宗家が滅ぼされた。以後半島の北の街道沿いは北条氏の領地となり、北条氏側に付いて三浦の家名を継承した傍系は、半島内に閉じ込められる形となった。後にこの系統は戦国大名化し、扇谷上杉氏被官となるも、伊豆北条早雲が相模国に勢力を拡大し、1516年に三浦氏を攻めるために玉縄城を築き、籠城した三浦義同三浦義意を住吉城から新井城に攻めて滅亡させると、三浦半島は後北条氏の領地となる。戦国時代には三浦半島は後北条氏の水軍の本拠となり、東京湾を挟んで里見氏と争った。里見義堯は水軍を率いて三浦半島を襲撃し、たびたび鎌倉まで攻めて北条氏綱と戦った。江戸時代初期は玉縄を本拠とする本多正信の領地で、江戸幕府直轄の天領であった。1600年ヤン・ヨーステンらとともに「リーフデ号」で日本に来航したイギリス人ウィリアム・アダムス徳川家康の外交顧問となり、三浦半島に領地を貰い、日本名を三浦按針とした。

鎖国後の江戸時代には浦賀の町に廻船問屋が並び、徳川吉宗浦賀奉行を設置する。後期にはフェートン号事件などが発生したため、鎖国政策をとる江戸幕府は江戸湾防備のために、1810年会津藩に三浦半島沿岸の警備を命じる。1821年以降は会津藩に代わって川越藩がそれを担当した。その後、モリソン号事件のように外国船が日本近辺に出現して測量などを行うようになり、1846年にはジェームズ・ビドルのアメリカ艦隊が三崎沖に姿を現し開国を求めた。1853年にはマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航、久里浜に上陸して幕府に通商を迫った(黒船来航)。洋式砲術を研究していた幕臣の江川英龍は、三浦半島に砲台を築いて防衛線とすることを提言するが退けられた。

明治後には三浦半島は国防上の要衝地と認知される。横須賀には横須賀鎮守府が設置され、日露戦争において黄海海戦日本海海戦で旗艦として活動した戦艦三笠」の本籍地であった。この「三笠」は日露戦争後に火災で沈没し除籍となるが、保存工事が施され三笠公園に現存する。太平洋戦争大東亜戦争)の末期には、アメリカ軍の本土上陸に備えて沿岸陣地も築かれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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