三波伸介_(初代)
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『三波伸介の凸凹大学校』収録翌日の1982年12月8日15時過ぎ、明かりが落ちた自宅の居間で倒れているのを、外出から戻って来た妻の和子と付き人の波連太郎が発見。救急車で病院へ運ばれたが既に呼吸・心停止の意識不明状態で、解離性大動脈瘤破裂により、意識は戻らないまま急逝した。52歳没。

肥満体であったことと、多忙のため多い日でも3?5時間しか睡眠を取れず、タバコは一日最低でも3箱を吸っていた。亡くなる2ヵ月前にあった名古屋市中日劇場での座長公演の際には、朝食は食べず昼食は味噌煮込みうどん、夕食はホテルで300グラムのビーフステーキという生活を、1ヵ月の公演中毎日続けたという。これについて三波のマネージャーは「健康のために嫌いなものを食べるのもひとつの生き方。でも、好きなものを毎日食べてあの世に行くのもひとつの生き方」と述べている。その一方、酒は下戸で一滴も飲まなかった。ビートたけしは三波の早世について、若い頃ヒロポンを注射していたためではないかと指摘している[5]

多くのレギュラー番組を抱え、名司会者として順風満帆の芸能生活を送っていた矢先の死だった。突然の訃報を受け駆けつけた盟友の伊東は、対面で開口一番「こりゃあウソだろう。寝てるんだろう!」と発し、記者会見の場で「(三波の亡骸を触ったときに)体がまだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて……。寄らば大樹の陰で、私などは彼のおかげでここまで来れた。(てんぷくトリオは)もう一人になってしまったんだなぁ……」と言いながら涙した。三波の亡骸がに納められる際には、妻の和子、長男の伸一と伊東によって、黒の紋付き袴が着せられた。

テレビとそのお茶の間で人気者の訃報にマスコミの取材活動は過熱したが、関係者が取り成し遺族への接触を遮断、和子は一度だけ全てのマスコミ記者インタビューに応じて立ち、「パパ(三波)はよく死んだふりをして家族をからかうことがあったため、このときもしばらく『死んだふりをしているのだろう』と思っていたところ、様子がおかしいのに気付いて救急車を呼んだ(大意)。」と語り、その様子がワイドショー番組やニュースで繰り返し放送された。

後年(時期不明)、「すぐ救急車を呼んでいたら三波を死なせずに済んだかもしれない」と悔やんでいたという[注釈 4]

コメディアンや演芸人には、仲間や自身の生涯を締めくくる儀式で、悲しみを和らげるために不謹慎な言動やわざわざ手段を遺言で残すなど不文律の慣習傾向が一部にみられ、三波とはフランス座時代の「同僚」で、一線を退き家庭に入るまで長い芸歴とその交遊関係を築き(後述)、深い繋がりからこの発言は事前に考えて内容を用意した節があり、発言のなかで「三波はよく死んだふりをして家族をからかうこと」は家族が喜ぶイタズラ(サプライズの贈り物など)をよく仕掛けていたとされる三波の信条に反し、真偽は定かでない。

葬儀・告別式は12月11日、東京都中野区宝仙寺で営まれ、葬儀委員長は伊東が務めた。葬儀には芸能・放送関係者やファンら約1,600人が参列し、三波の突然の死を悼んだ。弔辞は『お笑いオンステージ』のチーフプロデューサーを務めた増子正利らが読み、仕事の都合で参列できなかった中村メイコは事前に対面し、弔い棺に「てんぷく笑劇場」の配役用に製作した指輪[注釈 5]を納め、式には肉声テープが式場内で流された。「参列できずごめんなさい。でも、泣きのメイコがにっこり笑って舞台を務めます。(中略)大衆に結びついた喜劇をまっしぐらに追ったあなた。日本中に大きな笑いを振りまいたあなたに拍手を送ります。さようならは言いません。お疲れ様でした。」と泣きながら三波へ最後のメッセージを語り続けた。出棺後、遺体は東京都新宿区落合斎場荼毘に付された。

戒名は「施明院太伸三省居士」。三波の墓は埼玉県所沢市の「所沢聖地霊園」に所在する。墓石には、三波の座右の銘であった「喜劇とは笑わすだけにあらず 三波伸介」と刻まれている。

人気絶頂期の1982年12月に急死したため、事前収録されて翌年放送予定であった正月番組では「この番組は○月○日に収録したものです」とのテロップが流れた。正月に放送予定だったドラマ『ザ・サスペンス 刑事ガモさん - さらば愛しきテニス妻よ』は、予定を変更して年末の12月11日に繰り上げて放送された。

遺産は不動産のみであり、初代伸介の死後に預金通帳を遺族が確認した処、全く残っていなかった。
エピソード

三波の代表的なギャグ「びっくりしたなぁ、もう」は、幼少期の息子である後の二代目・三波伸介が言っていた言葉。ある日営業先でマネした際に客にウケ、それから使い始めたという説と、『大正テレビ寄席』初出演時、国定忠治役の戸塚がタイミングを間違えて突然抜刀。驚いた伸介のとっさの一言だったという説がある。

三波らが築いた「トリオブーム」を脅かした後輩の
コント55号、とりわけ萩本欽一との間には長年不仲が伝えられていた。しかし実際はお互い対抗意識は無く、三波は萩本を可愛い後輩として常に温かく見守っていたという。三波は生前、萩本を愛称で「欽坊」と呼び、萩本は三波を「お兄さん」と呼んで慕っていた。急逝後の追悼番組として放送された『三波伸介の凸凹大学校』最終回では、萩本が出演し故人を偲ぶコメントを残しており、三波が亡くなるわずか20時間前に収録されたVTRが放映された。

ザ・ドリフターズのリーダー・いかりや長介とも親交が深く、兄弟分の間柄であった(三波の方が1歳上)。いかりやの自伝『だめだこりゃ』によると、いかりやは自分と同年輩の仲間が周囲にほとんどおらず、コメディの世界では三波だけが唯一の同年輩で、しかも同じ東京の下町の生まれであったため、三波とは共通の話題を持つことができて嬉しかったという。

実際に三波がライバル視していたのは渥美清藤山寛美であり、特に渥美に対しては敵意をむき出しにしていたと言われる。三波と渥美は共に同じストリップ小屋から軽演劇を経た者同士であり、三波が大阪から戻り再起を期した頃には渥美は既にトリオコントから脱皮して一流芸能人の仲間入りをしていたことや、また三波の妻と渥美が旧知の間柄であったことなども、三波に一層の敵対心を抱かせた原因といわれる。

三波が渥美を敵視するようになったきっかけは、同じ舞台役者であった妻・和子と結婚前、新橋でデートしている所に渥美と遭遇、渥美は三波を無視して妻と話し込み、去り際に「俺は先に行って待ってるからな、お前はぼちぼち来いよ」とつぶやかれたからであると、息子の伸一が証言している。渥美は当時、日劇に呼ばれて一流芸人の仲間入りを果たした時期であり、三波は手に持っていた新聞を地面に叩き付けて悔しがったという。三波は息子に渥美と藤山寛美のビデオを見せて、自分とどっちが面白いかを尋ねるなど、終生ライバル視していたが、同時に『男はつらいよ』の映画は全部観ており、驚くほど細かいところまで観察していた。テレビなどでは披露されなかったが、渥美の物真似も上手く、芸人としての力量を認めていたからこそのライバル視であったことがうかがわれる。1977年に公開された松竹映画幸福の黄色いハンカチ』(山田洋次監督・高倉健主演)で渥美が演じた渡辺係長の役を、1982年菅原文太主演でテレビドラマでリメイクされた際、三波がこの役を演じている。

三波は50歳になった頃からテレビでの活動を減らし、舞台での活動に力を注ぎ始めていた。好評だったNHK『お笑いオンステージ』が10年目の区切りとして1982年4月4日放送分で終了。そのコーナーの一つだったてんぷく笑劇場を元に、舞台で心機一転を図ったともされるが[注釈 6]、その目標は自身の死により志半ばで断たれることとなった。

『夜のヒットスタジオ』の2代目司会者となった際、当時のスタッフが三波に期待したのはいわゆるコメディリリーフとしての役割であり、当初は司会進行にはあまり関わっていなかったが、朝丘雪路降板後は進行にも本格的に参加するようになった。三波は毎週本番の前日に必ず服を数着新調してこの番組に臨むように心がけていたと伝えられている。このエピソードから構成を務めていた塚田茂は「三波さんには三枚目の役割を期待したが、どうしても二枚目になってしまう」と当時の司会ぶりを回顧している。前任のフリートーク・知的な毒舌を売りとした前田武彦、後任のエンターテイナーぶりを徹底していた井上順の間で三波の司会ぶりは埋没されたが、前任の前田が引き起こした「共産党バンザイ事件」(詳しくは『夜のヒットスタジオ』「前田武彦」の項目を参照のこと)によるダメージから比較的早い段階で軌道修正に成功した。同番組で三波と共に司会を務めた芳村真理が番組勇退をする際の特番(1988年2月)では前田、井上、古舘伊知郎と三波以外の芳村と共に司会を務めた3人は出演して各々のコンビ時代を振り返るコーナーがあったが、三波は既に故人だったため、伊東四朗が三波の司会時代のパートで芳村と共にしている。

生前にミニカーライター絵画に造詣を持っており、三波伸介一門が運営している「三波伸介記念館」のホームページで形見の所蔵品として公開している。

上記のように絵画や似顔絵も特技であり、『お笑いオンステージ』の「減点パパ(減点ファミリー)」コーナーでもこれが活かされていた。ある日、伸一(2代目伸介)と一緒に新幹線に乗っていた時、一人のおばあさんが二人の前に立ち、サインでも欲しいのかと思ったら「私の記憶が確かなうちに主人の似顔絵を描いて欲しい」ということだった。このおばあさんの夫は太平洋戦争中に出征して戦死、自分も東京大空襲で家を焼かれて夫の写真も全て焼失、夫の肖像は自分の記憶の中にしかないという状態だった。そして三波は似顔絵を描き上げると、おばあさんは「これが主人です」と感激し、似顔絵を抱きしめて号泣したという[6]

スポーツマニアとしても有名で、特に都市対抗野球大会はほぼ毎年観戦しており、伸一(2代目伸介)によると、熱海への温泉合宿旅行とともに三波家(澤登家)の夏休みの恒例行事だったという[7][8]

妻との間には伸一の姉に当たる娘もいたが、1963年6月に生後わずか一日で亡くなっている[9]

飛行機が苦手だった[10]


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