地震が発生した当時は太平洋戦争中であり、国民の戦意を低下させないことや軍需工場の被害を伏せるため(敵への情報流出も作戦へ影響する)、政府当局によって報道管制が敷かれ、地震発生の報道はなされたものの被害規模やその後の状況などは多くが伏せられた[2][18]。ただし、地元でもある中部日本新聞(現・中日新聞)は比較的多くの報道を行ったほか、名古屋帝国大学教授らからなる震害地学術調査団を現地に派遣している[19]。地震被害の報道がなされなかったことで、近隣地域からの救護団も無く、さらに地震直後の行政による組織的な救援活動が実施されたとの記録は残っていない。しかし、明治航空基地や海軍基地の軍関係者による小規模な救助及び復旧活動が行われたとの証言が残っている。
地震発生から2カ月後から、行政(県)の手配による「工作隊」が組織され、復旧活動が進められた。 1月7日頃から始まった前震活動は1月11日頃から活発化し[11]、形原町や西浦町では有感地震5 - 6回を含む前震(マグニチュード5.9、5.2を含む)が発生していた[7][20]。翌13日には一旦沈静化した。余震活動も非常に活発であり、近年余震が特に多かったといわれる新潟県中越地震を凌ぐ数の余震が観測された[21]。最大の余震は、本震発生後3日目に発生したM6.4の地震である[22]。 また前震や余震の前後に三ヶ根山周辺(地震断層の直上)で夜空が発光するなどの宏観異常現象が確認されたとの報告がある[7][23]。当時は灯火管制が敷かれており、人工の灯りである可能性は低いとされる。 和銅八年(霊亀元年)辛巳朔 丙午 参河国地震、壊正倉四十七、又百姓廬舎、往々陥没、
前後の地震活動および宏観現象
江戸時代以前の三河地震
715年7月1日(ユリウス暦)(和銅8年5月26日)三河国地震。前日に遠江国地震の記録あり(『続日本紀』)。正倉47棟が倒壊、百姓の家が陥没した。
1686年10月3日(旧暦・貞享3年8月6日)に遠江と三河の沖合いでマグニチュード6.5 - 7程度と推定される地震が発生し、被害はこの二国に及んだ。遠江三河地震と呼ばれる。なお、1685年に記録されている三河地震は、根拠となった『渥美郡史』の誤字であり、実際には存在しないゴースト地震と考えられている[24]。また、貞享3年の地震は、1707年宝永地震の先駆的な地震として発生した可能性があり、広義の前震の可能性があるとされる[24]。
1861年2月14日 文久西尾地震
脚注[脚注の使い方]^ a b “震度データベース検索