三條實美
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安政元年(1854年)2月、次兄で三条家の嗣子であった三条公睦が早世した。公睦には嫡子公恭がおり、本来であれば公恭が継ぐはずであったが、富田織部の強い推挙によって、4月に嗣子となった[3]。8月には元服し、実美と名乗った[4]。「美」の字を使った名乗りは本来「よし」や「はる」と読むが、実万はこれを忌み、儒者池内大学の勧めにより「実美」は「さねとみ」と読むこととなった[5]。またこの際に公恭を養子として迎えている[5]。実万は攘夷達成のため、戊午の密勅発出の立役者となったことで、幕府に迫害されることとなる。安政5年(1858年)10月23日、父・実万が隠居・蟄居し、富田織部など三条家の侍も多く逮捕された(安政の大獄)[6]。このような状況下で実美は正式に三条家の家督を相続したが、翌安政6年(1859年)4月には実万は出家・謹慎に追い込まれ、10月に死去した[7]。 尊攘派公家の代表
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