三條實美
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翌日には国事書記御用に任ぜられ、朝廷の中枢に触れる事ができるようになった[9]。実美を引き立てたのは実万の教えを受けた中山忠能や親類筋の正親町三条実愛であった[9]。本来実美は公武合体論者であったが、一向に攘夷に進まない幕府への不満をつのらせていた[10]。この時期には平野国臣の『培覆論』を筆写するなど、尊攘派の志士との交流を深めるようになっていた[11]

7月から8月にかけては、公武合体派の公卿であった内大臣久我建通岩倉具視を始めとする四奸二嬪を激しく攻撃し、失脚に追いやった[12]。さらに父実万の養女を妻としていた土佐藩山内容堂に働きかけ、藩主山内豊範とともに上洛させ、土佐藩を中央政界へ進出させた[13]。この時期、実美らを始めとする、朝廷の権力を増大させようという朝廷改革派が勢力を伸長したが、攘夷論者ではあるが幕府への大政委任論の立場に立つ孝明天皇の考えとは大きく異なるものであった[14]

8月には長州藩と土佐藩が、14代将軍の徳川家茂に攘夷を再度督促する勅使として実美を派遣するよう運動を開始した[15]。6月には大原重徳が薩摩藩の運動によって派遣されたばかりであり、両藩の動きは薩摩藩の影響力を削ぐねらいもあった[15]。8月10日、実美は攘夷督促のための勅使を再派遣する意見書を出し、10月には勅使の正使として、副使の姉小路公知とともに江戸へ赴いている[16]。実美と長州藩の関係はこの頃から密接となった[17]。12月9日には国事御用掛が設置され、実美はその一員となった[18]
朝廷の掌握

この頃、実美は近衛忠房に対し、「(江戸のある武蔵国は)昔は野でしたから、また『武蔵野』となってもよいでしょう。」と放言し、近衛の怒りを買っている。また薩摩藩や青蓮院宮尊融入道親王に不満を言い募るなどし、両者の不信を買った[19]。実美は武市半平太土佐勤王党によって土佐藩をまとめ、長州藩とともに薩摩藩に圧力を掛けるべく動いていた[20]。当時、大久保利通は「長士の暴説に酔った」と評している[20]

文久3年(1863年)正月23日、親薩摩派の関白近衛忠煕は実美らの攻撃に耐えかねて辞職し、長州藩士を多く出入りさせていたため「長州関白」と呼ばれる鷹司輔煕が次の関白となった[20]。2月20日には学習院で学ぶ公家たちに、草莽の志士が時事を顕現することが許されるようになり、公家たちが尊攘派の影響をさらに強く受けるようになった[21]。2月22日には尊攘派公家の押し上げにより、将軍後見職の一橋慶喜に攘夷期限の奏上を求めることとなった。この交渉役に選ばれた実美は、慶喜を激しく攻め立て、4月中旬を攘夷期限とする言質をとった[22]

鷹司関白は高齢で自信に欠けるところもあったために、実美ら尊攘派公家に抵抗することができず、実美は「関白殿下ですら時に屈従する」といわれる程の権勢を誇った[23]。この状況を憂いた青蓮院宮は山内容堂に実美の説得を依頼したが、効果はなかった[24]。当時は尊攘派志士の活動が過激化しており、実美の師だった池内大学ですら殺害されるほどであった。実美は容堂に対し、志士たちが強く攘夷を迫る状況を説明し、「予が身の上をも推察せられたし」と訴えている[24]。2月21日に実美は議奏に任ぜられ、病気を理由に辞退したい旨を述べたが許されなかった[24]

3月4日には将軍家茂が上洛し、実美ら尊攘派は圧迫を強めた。3月11日には上賀茂神社下鴨神社への攘夷祈願の行幸、4月11日には石清水八幡宮への行幸が行われ、攘夷を迫る将軍への圧力となった[25]。石清水行幸の当日、孝明天皇はめまいのために延期を求めたが、実美は許さず、無理に面会を迫って仮病かどうかを問いただしたという[26]。ついに5月10日をもっての攘夷決行を約束させ、その当日には孝明天皇に「焦土と化しても開港しない」という勅を出させた。島津久光・松平春嶽・山内容堂といった公武合体派は京を去り、長州藩と尊攘派によって京都はほとんど掌握された[27]。しかしこの状況には孝明天皇ですら不快感を示すようになり、尊攘派公家を「暴論の堂上」と呼ぶようになった[26]
姉小路公知暗殺事件「朔平門外の変」も参照


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