2年留年して卒業後、1940年4月、日産化学工業に入社。半年後に召集を受け、1940年11月30日に同社を休職して1941年1月10日に二等兵として陸軍東部第六部隊へ入隊する。経理部幹部候補生試験に合格し、戦時中は千葉県の東部軍管区教育隊の経理室に勤務。経理部甲種幹部の同期に堀田政孝(後の衆院議員)、五島昇(後の東京急行電鉄会長)、坂内富雄、高島幸三郎がいる[6]。軍務のかたわら、諸井三郎に作曲を師事、『東部軍教育隊隊歌』の作曲を担当[7]。このころ人形劇団「貝殻座」のために劇音楽を作っている。
大尉として復員した後、混乱した世相の中で「どうせ餓死するならやりたいことをやって死にたい」との思いから復職を断念し、音楽家の道に進むことを決意。1946年に焼け跡の歌『南の風が消えちゃった』を作る[8]。音楽演奏会のマネージャーを経て、『音楽ウィークリー』誌を創刊。この雑誌の取材で面会したNHKラジオの音楽部長に『南の風が消えちゃった』を売り込んで認められ、10分間の枠を与えられ、自らの製作・構成・脚本・作詞作曲・演奏によるラジオ番組『歌の新聞』に朝川賞郎や秋元喜雄(のちの河井坊茶)とともに出演することとなる[8]。この番組の構成にあたっては、アメリカ進駐軍の極東軍放送 (FEN) のしゃれた番組作りが念頭にあったという[8][9]。
その後、ラジオ番組『日曜娯楽版』[10](1947年放送開始)での「冗談音楽」、その後身である『ユーモア劇場』で爆発的な人気を博したが、1954年の造船疑獄に対する辛辣な諷刺で佐藤栄作を激怒させ、同年6月に同番組は打ち切りとなった[11]。当時のNHK会長の古垣鉄郎は、佐藤からの圧力で会長の座を追われたという[11]。同年8月、文藝春秋社の提供で文化放送から『みんなでやろう冗談音楽』がスタートし、「冗談音楽」は復活したが、同年12月、吉田内閣の退陣を機に『みんなでやろう冗談音楽』も終了。これとともに「冗談音楽」の廃業を宣言した[12]。
また、1951年、日本初の放送におけるコマーシャルソングである「僕はアマチュア・カメラマン」[注釈 1] をつくり、ディズニーアニメで初の日本語版音楽監督を務めた。
活動に際しキノトール、能見正比古、永六輔、神吉拓郎、野坂昭如、伊藤アキラとトリローグループを結成(また、作曲家陣として神津善行、いずみたく、嵐野英彦、桜井順などを、三木鶏郎楽団としてジョージ川口、小野満、鈴木章治などを集める)。門下からは歌手(楠トシエ、中村メイコなど)や俳優(三木のり平、河井坊茶、千葉信男、丹下キヨ子、逗子とんぼ、なべおさみ、左とん平など)など、多くの人物を世に送り出している。
1993年に日本広告音楽制作者連盟によって三木鶏郎音楽賞が創設された[13]。
晩年は糖尿病を患い、糖尿病の芸能人仲間と「糖尿友の会」を主宰していた。晩年は1年の半分以上をハワイのマウイ島で過ごしていた。4部構成から成る回想録を書き上げ、このうち1部と2部が平凡社から刊行された直後に死去した。
年譜
旧制浦和高等学校(埼玉大学の前身)文科丙類を卒業。
1940年 - 東京帝國大学法学部法律学科を卒業する。
作曲を諸井三郎、ヴァイオリンを小野アンナ、ピアノを渡辺シーリーに師事する。
1941年 - 経理部幹部候補生試験合格し、東部第8部隊集合教育で陸軍経理学校へ入学する。