8月、『人間』に発表した「夜の仕度」は、軽井沢を舞台にして戦時中の邦子との体験を元に堀辰雄の『聖家族』流にフランス心理小説に仮託した手法をとったものであった[210][211]。林は、これを中村真一郎の「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた[212]。
これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った[203][213]。林は酔って帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、好感を抱いた彼は親交を持つようになった[203]。当時の三島は、堀の弟子であった中村真一郎の所属するマチネ・ポエティックの作家たち(加藤周一、福永武彦、窪田啓作)と座談会をするなど親近感を持っていたが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である心中を認めない説教的ヒューマニズムに、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え、同人にはならなかった[53]。
「夜の仕度」は当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」という高見順や中島健蔵の無理解な合評が『群像』の11月号でなされた[214][215]。これに憤慨し、わかりやすいリアリズム風な小説ばかり尊ぶ彼らに前から嫌気がさしていた三島は[216]、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った[111]。
大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『岬にての物語』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を伊東静雄にも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し[121][124]、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている[124]。東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プールの飛込台の上で星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々におくれをとることになるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に映る星の光など見てくれません。(中略)
「私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて棄ててかかるのである」 川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。(中略)
東京では印象批評が滅び去りました。たとへば中里恒子や北畠八穂のやうな美しい女流作家が不遇です。川端康成氏が評壇から完全に黙殺され、日夏耿之介氏はますます「枯坐」して化石してしまひさうです。横光利一氏の死に対してあらゆる非礼と冒?がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつてこのやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸をすることなどできませう。