三島由紀夫
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三島以外の出席者は皆、矢代と同じ府立第五中学校出身で、中村稔一高在学)、原田柳喜(慶応在学)、相沢諒(駒沢予科在学)、井坂隆一(早稲田高在学)、新潮社勤務の野原一夫、その家に下宿している出英利(早稲田高在学、出隆の次男)と高原紀一(一橋商学部)、家主の清水一男(五中在学の15歳)といった面々であった[196][197][198][注釈 13]

三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた[194]。そして三島は森?外についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」と太宰流の韜晦(とうかい)を込めて言った[197][199]

下戸の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった[194][199]。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した[53][197]

これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後[197]、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言った[53]。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった[53][196][注釈 14]。その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている[200]。太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。 ? 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付)[200]

1947年(昭和22年)4月、記紀衣通姫伝説を題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。三島は、前年1946年(昭和21年)9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)から、その2か月後の11月6日に来電をもらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らともダンスホールに通っていたが[16][193]、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた[159][201]

同年6月27日、三島は新橋の焼けたビルにあった新聞社の新夕刊林房雄を初めて見かけた[202][203]。同年7月、就職活動をしていた三島は住友(銀行か)と日本勧業銀行の入行試験を受験するが、住友は不採用となり[67][204][注釈 15]、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった[205][206][207][208]


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