三島由紀夫
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慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した[147][170][注釈 10]

三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管ののなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り[171]、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた[67][172][173]。そういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった[67]

同年2月、三島は七丈書院を合併した筑摩書房の雑誌『展望』編集長の臼井吉見を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草、など)を持ち込んだ[53][174][175]。臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と「中世」を採用しようとするが、顧問の中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し、没となった[174][175]。落胆した三島は、〈これは自分も、地道に勉強して役人になる他ない〉と思わざるをえなかった[53]

一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた[176]。「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、それ以後の川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりの基礎が形づくられた[177]

しかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という彼への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた[178]。川端は、三島が取りかかっていた初めての長編(盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生でもある彼を助けた[179][180][181]

臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる[170][175]。職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、加藤周一と三島の2人しかいないとし[176]、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという[168]

しかし当時、借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた[182]。父・が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた[183]。三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での法学の勉強にも勤しんでいた[53][182]。梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定した大蔵省の役人になることを望んでいた[52]


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