GHQ占領下の日本では、戦犯の烙印を押された軍人が処刑されただけでなく(極東国際軍事裁判)、要職にいた各界の人間が公職追放になった。マスコミや出版業界も「プレスコード」と呼ばれる検閲が行われ、日本を賛美することは許されなかった。戦時中に三島が属していた日本浪曼派の保田與重郎や佐藤春夫、その周辺の中河与一や林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された[166][167][168]。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える[53]。
戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった[53]。三島は終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが[148]、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた[53]。
それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪れた[53][169]。慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した[147][170][注釈 10]。
三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り[171]、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた[67][172][173]。そういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった[67]。
同年2月、三島は七丈書院を合併した筑摩書房の雑誌『展望』編集長の臼井吉見を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草、など)を持ち込んだ[53][174][175]。