三島由紀夫
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

また、6月の軽井沢訪問後に邦子との結婚を三谷家から打診されて逡巡していた公威は、邦子が銀行員・永井邦夫(父は永井松三)と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った[158][159][注釈 8]

翌年1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚し、公威はこの日自宅で泥酔する[110]。恋人を横取りされる形になった公威にとって、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった[159]。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は邦子と道で遭遇し、この日のことを日記やノートに記した[161][162]。偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。(中略)その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。前日まで何故といふことなく僕は、「ゲエテとの対話」のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか? 書くなといふ暗示なのか? ? 平岡公威「ノート(昭和21年)」[162]

この邦子とのことは、のちの自伝的小説『仮面の告白』の中で詳しく描かれることになる[162]

1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発した。また、それに先立つ1945年9月には、連合国軍占領下の日本における最高司令機関GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーと昭和天皇が会見し、その写真が新聞に掲載された。公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣(ふんまん)を漏らしたという[42]。また、三谷と焼跡だらけのハチ公前を歩いている時には、天皇制を攻撃し始めたジャーナリズムへの怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという[42]。三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している[42]

なお、この時期ちょうど、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた[163][164]。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが[165]、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった[163][164][注釈 9]。この詩集には、荒涼たる月世界の水なき海の名、幻耀の外面と暗黒の実体、生のかゞやかしい幻影と死の本体とを象徴する名『豊饒の海』といふ名を与えよう、とまで考へるやうになりました。詩集『豊饒の海』は三部に分れ、恋歌と、思想詩と、譚詩とにわかれます。幼時少年時の詩にもいくらか拾ひたいものがありますが、それは貴下に選んでいたゞきませう。これが貴下の御厚意への僕の遠慮のないお答へです。 ? 平岡公威「斎藤吉郎宛ての書簡」(昭和21年1月9日付)[165]
川端康成との出会い川端康成

GHQ占領下の日本では、戦犯の烙印を押された軍人が処刑されただけでなく(極東国際軍事裁判)、要職にいた各界の人間が公職追放になった。マスコミや出版業界も「プレスコード」と呼ばれる検閲が行われ、日本を賛美することは許されなかった。戦時中に三島が属していた日本浪曼派保田與重郎佐藤春夫、その周辺の中河与一林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された[166][167][168]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:1395 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef