三島由紀夫
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^ なお、三谷隆信の三女・正子は、鮎川義介の息子・鮎川弥一に嫁いだため、邦子は鮎川純太の義理の伯母となった。
^ 三島より2、3歳年長の斎藤吉郎は1942年(昭和17年)に一高を卒業してから東大に入り、友人らと雑誌『故園』を1943年(昭和18年)に発刊した[163]。『故園』第1号は、蓮田善明の「神韻のしらべ」が巻頭を飾り、三島の詩「春の狐」も掲載された[163]。斎藤の雑誌は終戦後『叙情』として発刊し、三島はその第1号に戦時中に創作した「絃歌――夏の恋人」を寄稿した。この詩には、邦子とのことを題材にしているのが看取される[163]
^ 野田宇太郎は当時を振り返る随想で、まだ学生の三島が有名な作家になりたいという野心を持って川端康成を訪問し、そのために自分をずっと利用していたと悪し様に語っているが[147]、野田の知らないところで、三島と川端との繋がりは学習院在学中の頃からあったという説もある[170]越次倶子が三島の母・倭文重に取材したところによると、1943年(昭和18年)、三島の詩や短編を読んだ川端から手紙(宛名は平岡公威)が突然来て、「名もない僕に大作家の川端さんが、お手紙を下さるなんて天にも昇る気持だ」と三島が大喜びし、はしゃいでいたという[170]。それから翌1944年(昭和19年)の『花ざかりの森』出版まで、三島は川端へ2、3度手紙を出し、本ができあがると贈呈した[170]。三島は15歳頃に川路柳虹に師事していたが、川路が三島の文学的早熟に驚き、教えることがないと周囲に漏らしていたため、親交のあった川端にも三島少年の詩篇を見せた可能性もあり、それ以降、各所で発表される三島の作品に川端が注目していたと越次は推察し、それが三島の言う〈何か私を勇気づける事情〉のことだとしている[170]
^ 当時は物資不足で大学の学生服の新調はできず、三島は終戦までは、召集されていく先輩の制服を借り、戦後は自分の学習院時代の制服を改造した(仕立て直した)窮屈なものを学生服として着て、講義を受けていた[129]
^ なお、三島の母・倭文重も、娘時代に兄と2人でよく銀座(まだ関東大震災前の)の喫茶店に通っていた頃、芥川龍之介南部修太郎と一緒にいる目のぎょろぎょろした川端や、無精髭の横光利一を見かけていたという[34]
^ 彼らは、第五中学校の校内誌『開拓』に投稿していた文学仲間であった[198]
^ 中村稔によれば、三島はその会がお開きになるまで居て、帰りは三島と渋谷駅まで一緒に帰ったと回想している[198]
^ 三島の日記では「住友」とだけになっているが、佐藤秀明は住友銀行と推測している[67]
^ 大蔵省時代のことを題材にした作品には、『大臣』『訃音』『鍵のかかる部屋』『日曜日』などがある[218][219][229][230]
^ 『序曲』は、河出書房杉森久英が企画し、埴谷雄高武田泰淳野間宏中村真一郎梅崎春生椎名麟三、佐沼兵助(寺田透)、船山馨島尾敏雄、三島の10名が編集同人となった同人雑誌だが、創刊号の1号で終刊した[232]
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