三島事件
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^ 玄関で出迎えた沢本三佐が、日本刀の所持について質問したが、三島は例会に使う「指揮刀」だと言った[6][10]
^ 中村2佐はその後、陸幕広報班長、第32連隊長、総監部幕僚副長、久留米の幹部候補生学校校長を歴任し、1981年(昭和56年)7月、陸将で定年退官した[14]
^ ちなみに、山本舜勝が最後に三島宅を訪問した際、形見かのように、三島から恩賜の煙草と楯の会の隊歌のレコードを貰ったという[19]
^ このバルコニーは、かつて太田道灌江戸城防衛のために展望台を置いた所でもある[9]
^ この「七生報國」という語は、楠木正季が兄・楠木正成と共に自害した時に発した言葉として『太平記』で語られている(正成も弟のその言葉に同意)。
^ 「檄文」では、自分を否定する憲法にぺこぺこする自衛官たちを〈自ら冒?する者〉と表現されている[22]
^ K陸曹はその当時の心境を以下のように述懐している。無性にせつなくなってきた。現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った。 ?  K陸曹の回想[9]
^ 三島は楯の会の会員に、「人間が自分の話す言葉の真意を誤りなく伝え、相手に正確に理解してもらえる範囲は、せいぜい10人が限界だ」と、軍隊の最小単位の班が何故10人かという根拠の説明をし、話し手の表情・呼吸・息吹が聞き手に直接伝わる範囲の中で普通の肉声で話さない限り、話の真意はなかなか伝わらず、大勢を相手にして文明の利器のマイクを使って声を張り上げて演説すると、そこには必ず虚飾と誇張が入り、本質的に人の心を動かすことはできないという意味の話をしていた[23]
^ 徳岡孝夫は、演説を聞き取れる範囲で書き残したメモを、三島から託された手紙・写真と共に、と銀行の貸金庫に保管しているという[28]
^ 文化放送で、この事件を担当した若手記者・三木明博は、その後同社の社長に就任している。
^ この時、介錯を三度失敗したことで、刀先がS字型に曲がってしまったとも言われる[34]
^ 1971年4月19日の第二回および同年6月21日の第六回公判記録によれば次のように記録されている。「右肩の傷は初太刀の失敗である。森田必勝は三島由紀夫が前に倒れると予想して打ち下ろしたが、三島が後ろに仰け反った為、手許が狂って肩を切った。次の太刀は、三島が額を床につけて悶えて動いている所を切らねばならないため首の位置が定まらず、床と首の位置が近いから床に刀が当たってなかなか切断できない。結果、森田に代わって古賀正義がもう一太刀振るった。」
また慶応義塾大学病院法医学解剖室教授・斎藤銀次郎(当時)による1970年11月26日の解剖所見の三島の切腹傷のように(「#検視・物証・逮捕容疑」を参照)、ここまで腹部に深く短刀を突き刺した場合には腹部内臓に分布する血管迷走神経を刺戟して血管迷走神経反射を起し、血管の拡張により脳血流が保てなくなり失神に陥る。さらに瞬時に襲ってくる全身の痙攣硬直により両脚が伸びきり、そのために上体は前のめりになるか後ろにのけぞってしまう。だから切腹する者の傍らに押さえ役を配しておかなければ到底介錯することはできないのである。
なお森田の割腹に関して、三島および森田の空手の師匠であった中山正敏が次のように述べている。「目の前で 三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか。」(中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」1971年2月1日付)
以上の事実から判断するに、森田必勝による三島由紀夫の介錯が失敗だったことは疑うまでもないもののそこには無理からぬ理由があったものと斟酌すべきだろう。
^ 三島自決の3年後、市ヶ谷のとある企業の参与となった山本舜勝を持丸博が訪ね、「山本さん、いい悪いは別にして、三島先生があのような事件を起こしたのは、あなたに刺激されたせいかもしれませんよ」と言うと、山本は下を向いたまま、「寝覚めが悪い。いまは三島さんの霊を慰めながら、俳句三昧の生活をしている」と答えたという[60]
^ 寺尾克美によれば、歴代の防衛庁長官で全責任を取らなかったのは中曽根だけで、「風見鶏」さながら渡り歩いて総理大臣にまで登りつめた後、「憲法改正ができないので〈専守防衛〉という〈政治的捏造語〉を唱えて、その場しのぎで今日まで国民や近隣諸国を誤魔化して」きたとしている[15]。そして寺尾克美は、後年自衛隊を退官後、加害者である三島の行為を「義挙」と総括し、憲法改正を訴える日本会議の活動家となった[15]
^ しかし、そんな司馬遼太郎も自身の晩年には、三島の予言と同じように、バブル期から平成時代の日本人の拝金主義や倫理喪失をしきりに嘆いて憂うようになった[39]
^ 櫻井秀勲は、「『ナルシシズムに腹が立つ』といった若手作家」(柴田翔のこと)を含め、三島の自決直後に批判的コメントをした者の何人かは、生前は三島のことを「先生!」と呼んで媚び「生きている間は(三島を)尊敬していた人たちである」と述べている[72]
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