居留地の造成が遅れた神戸では、居留地の造成完工よりも先に雑居地の指定が行われ、雑居地の範囲は旧生田川 - 宇治川間の山麓から海岸までと広範囲なものだった。三宮町も雑居地の範囲に含まれるが、外国人に人気だったのは北野町山本通などの山麓付近であった。
三宮町や居留地の東端である旧生田川は神戸村・神戸町・神戸区(市の前身)時代を通じて、神戸の東端(神戸村・神戸町時代は加えて八部郡の東端)かつ外国人雑居地の東端であったが、旧生田川筋に南北幹線道路が敷設されたことによって、旧生田川以東の菟原郡葺合村が市街拡張の候補地となり、1889年(明治22年)の市制施行時に神戸市域に含まれた。1899年(明治32年)の居留地返還を機に、1907年(明治40年)の新港突堤造成工事着工(旧生田川河口、旧居留地沖合)および神戸臨港線敷設、1912年(大正元年)の神戸市電布引線開業(旧生田川筋)などによって、街や港が次第に旧生田川筋を中心に展開するようになり、1931年(昭和6年)10月には三ノ宮駅が旧生田川以東の現在地へ移転した。三ノ宮駅の旧地付近は官公庁および海運商事会社が多く政治経済の中心となっていたために、請願駅として1934年(昭和9年)に旧・三ノ宮駅跡に国鉄(JR)元町駅が開業している[5]。
1933年(昭和8年)に神戸市電税関線開業(旧生田川筋)。同年に阪神本線が地下新線に切り替え、1936年(昭和11年)に阪急神戸本線が三宮へ乗り入れた。こうして三ノ宮駅は東神戸の新興住宅地をバックとするターミナル駅となり、そごうが元町から阪神三宮駅前に移転、付近には映画館や飲食店が集中して西の湊川新開地に比肩する歓楽街となった[6]。
1945年(昭和20年)、太平洋戦争における神戸大空襲で、三宮も含めて神戸の市街地は焦土と化し、占領軍は三ノ宮駅の南側にイーストキャンプ、神戸駅の西側にウエストキャンプを置いた。ウエストキャンプが新開地本通りの東側に隣接して置かれたのに対し、イーストキャンプは旧生田川以東、御幸通以南に置かれ、三ノ宮駅前の雲井通や小野柄通および旧生田川以西の三宮町には置かれなかった。結果、新開地は復興が遅れ、中心街が元町・三宮へ移る(戻る)ことにつながった。
高架下の闇市、そごう百貨店前の通称ジャンジャン市場を中心にいち早く復興。1946年(昭和21年)秋に三宮センター街が、昭和30年代から昭和40年代にかけては三宮駅前に新聞会館・神戸国際会館・交通センタービル・神戸商工貿易センタービルなどが相次いで建てられた。1957年(昭和32年)には神戸市役所が湊川から当地に移転し、市の中心街の地位を復興の立ち遅れる新開地から奪う形となった。[6]1966年(昭和41年)から1978年(昭和53年)にかけては三宮地区市街地再開発が行われた。(その結果センタープラザが建設され[7]、1965年(昭和40年)にはさんちかタウン(現さんちか)が完成した)
また、この時期には三宮駅前からセンター街にかけてダイエーが店舗を次々と開設していったことから、「ダイエー村」と呼ばれるようになった。
1981年(昭和56年)には人工島ポートアイランドと結ぶ新交通ポートライナー(神戸新交通ポートアイランド線)が三宮駅に乗り入れ、三宮ターミナルビルも開業した[5]。
1990年代に入ると、JR神戸駅前の旧日本国有鉄道湊川貨物駅跡地に神戸ハーバーランドの街開きによって客足が奪われ始めたことに加え、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災により再び神戸は甚大な被害を受ける。
その後の三宮では、年々新しい商業施設が相次いで出店。2002年には震災で被害を受け解体された「ダイエーさんのみや男館」の跡地にユニクロが、2003年10月には、首都圏を中心に展開する丸井が三宮駅前に関西一号店として「神戸マルイ」を出店した。「ダイエーオフプライス館さんのみや」の跡地にもファッションビル「クレフィ三宮」が建築(2004年10月にオープン)。2008年にダイエー最後の跡地であるジョイント跡地にZARAがオープンした。また神戸新聞会館も被災によって取り壊され跡地は駐車場として利用されていたが、2006年10月に「ミント神戸」の愛称で再オープンした[8]。
2009年3月、駅東部の旭通4丁目再開発の起工式が行われ、兵庫県最高層となる高さ190m54階建ての超高層マンションの建設が開始された。2013年3月には「シティタワー神戸三宮」が竣工した[9]。
また、阪神三宮駅改良工事により新たに東口が作られ、2012年3月20日に開通した[10]。
交通
鉄道駅
JR西日本 JR神戸線 - 三ノ宮駅