ジャック・モイヤーが魅了された三宅島周辺海域は、魚類などが豊富で、様々な地形を有することから、スキューバダイビングが楽しめる場所でもあり、首都圏から多くのダイバーが訪れる。島周辺には多くのダイビングポイントがあり、約600種類以上海水魚が生息している。約90種類のサンゴが生息する北限域である。
「長太郎池」は干潮時は外からの波が入って来ない[4]天然の閉鎖性磯場であり、ハゼやタカノハダイからウツボ、ガンガゼ、ヤドカリ、ヒトデなど、さまざまな海洋生物を容易に観察することができることから家族連れなどの観光客にも人気がある。一方で、火山活動の影響が少なかった海域では数年間人間の活動が無かったことから、イセエビなどが豊富に棲む良い環境になっている。
御蔵島同様、ミナミハンドウイルカの生息が確認されている。また、八丈島同様、三宅島でも2018年から冬・春季のザトウクジラの目撃が急増しており、ホエールウォッチングへの活用を模索している[5][6]。一帯では他の鯨類も確認されており[注 1][7][8][9][10]、中には非常に希少な種類も含まれている。2016年[11]にはコククジラが[注 2][12][13]、2016年と2023年にはセミクジラが陸上から観察されており[14][15]、セミクジラの場合は同一人物が同じ場所で複数回目視する[16]という稀有な事例である[注 3][17][18][19]。
しかし、三宅島や周辺一帯[注 4]にも生息していたとされるニホンアシカは絶滅したとされている[20][21][22]。
1960年代、島内にノネズミが繁殖して島の規模の小さな農業に大きな打撃を与えた。1970年代、村では他島の実績を踏まえてニホンイタチの放獣案が検討されたが、野鳥などに与える影響が大きいとして反対運動も行われた[23]。村は、島民の生活と島の生態系の保護という板挟みに遭い、イタチのオスのみを放獣する折衷案を実行した。しかし、1980年代に入ると何者かがイタチのつがいを放獣したことを契機にイタチの繁殖が始まり、オカダトカゲが捕食により減少するなど想定していない生態系の変化も見られた[24]。 島名の由来はいくつかある。事代主命(ことしろぬしのみこと)が三宅島に来て、付近の島々を治めたという伝説から宮家島といった説、8世紀に多治比真人三宅麿
歴史
江戸時代は流刑地で、江島生島事件の役者生島新五郎などの墓がある。 本島の南約18kmの海上には御蔵島がある。人口300人ほどと小規模な離島であることから、物資や交通などの生活の多くを三宅島に依存してきた。御蔵島村営(のち伊豆諸島開発)の連絡船えびね丸
御蔵島との関係
1993年以降、御蔵島でのイルカウォッチングがテレビや新聞で取り上げられ、全国的に有名になると、三宅島の人々も続々参入し、三宅島の観光の一つの柱になりつつあった。交通の便や収容量、イルカウォッチングに使う漁船の大きさで優位に立つ三宅島側に対し、御蔵島側は商用利用と自然保護の間で慣れない舵取りを迫られた。
しかし、2000年の噴火で状況は一変した。三宅島との連絡船を始めとする既存の交通体系を失った御蔵島へ、代替として本州島側の東京都地域からの船便が大幅増便され、やがて毎日就航にまでに拡大された。
この間に宿泊施設を拡充させた御蔵島は、東京都庁と共同でエコ・ツーリズムの推進を打ち出し、ミナミハンドウイルカなど動植物の保護と観光を一体化する政策を実現させ、御蔵島の名前を全国区に押し上げることに成功する。こうした施策の成功で、三宅島の島民帰島後も御蔵島への船便はそのまま維持された。船便の御蔵島就航継続に加え、三宅島と本州(東京都内)を結ぶ航空便の利便性が一時大幅に低下したため、三宅島は御蔵島への物資・交通の中継地という役割を大きく失うこととなった。
現在は三宅村と御蔵島村とがイルカウォッチングに関する協定を結び、両島が協定ルールに基づきイルカウォッチングを行っている。
行政面は噴火の前・後ともに一貫して変わっておらず、都の出先機関は御蔵島も含め三宅支庁であり、御蔵島駐在所は三宅島警察署の管轄である。建設業の主力も引き続き三宅資本である。
噴火雄山の火口
噴火活動が盛んで、1085年(応徳2年)以降、1154年(久寿元年)、1469年(文明元年)、1535年(天文4年)、1595年(文禄4年)、1643年(寛永20年)、1712年(正徳2年)、1763年(宝暦13年)、1811年(文化8年)、1835年(天保6年)、1874年(明治7年)、1940年(昭和15年)、1962年(昭和37年)、1983年(昭和58年)、2000年(平成12年)に噴火の記録がある。
雄山(おやま)を中心としてしばしば激しく噴火をすることで知られ、火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山(常時観測火山)に選定されている[25]。また、日本の気象庁によって火山活動度ランクAの活火山に指定されている。
最近500年間では、平均50年の間隔で13回の噴火が起き、明治時代以降だけでも5回を数える。その中でも三宅島の火山活動で特に語られるのは直近の2回、1983年、2000年である。
1983年の噴火1983年の噴火で溶岩流に飲み込まれた阿古小中学校体育館跡
1983年に発生した噴火では、10月3日正午(以下JST)頃から、阿古地区などの島の南部で小さな地震が感じられるようになり、午後1時58分に北部の三宅島測候所で火山性地震を観測。そして、午後3時23分頃に南西山腹に生じた割れ目から噴火が発生した。噴火が始まったのは七島展望台と二男山の間にある斜面と考えられている。噴火開始から20分後には、小火口の列が南北に延びていった。
割れ目火口から列をなして高さ100m以上に吹き出た溶岩は、主に火口西方にある阿古方面、南西にある錆ヶ浜方面、南南西の粟辺方面の3つに分かれて流れ、阿古方面に流れた溶岩流は約1.7km/hで流下し、午後6時頃には民家を焼き、阿古地区の一部を飲み込んだ。粟辺方面に流れた溶岩流は、午後5時56分頃に海に到達したことが確認されている。
一方、午後4時17分に新澪池の北西で大噴煙が上がり、午後4時38分には最初のマグマ水蒸気爆発が発生。午後5時10分頃には島の南端、新鼻付近で爆発が発生し、午後5時22分には隣の御蔵島から新澪池の西方で火柱が目撃されている。その後、午後7時17分に新澪池北西から西方にかけて激しい爆発が発生し、午後9時40分には新鼻およびその東側で最も激しい水蒸気爆発が発生。翌4日未明にかけて爆発や噴火が相次いだ。これらの一連の火山活動によって、周辺に大量の岩塊や東方の坪田方面に火山礫や火山灰が降下した。溶岩の流出は4日の早朝にはほぼ止まった。
住宅の埋没・焼失は約400棟。山林耕地等に被害が出たが、幸いにも人的な被害はなかった。
国土地理院の測定によると、噴出物の総量は、溶岩流が5 - 7×106m3、火山灰等が6×106m3、計2,000万tであった。噴火前後に、計101回の有感地震が発生し、そのうちの最大は3日22:33に発生したM6.2の地震で、三宅高校では震度5を観測した。
2000年の噴火「伊豆諸島北部群発地震」も参照2000年の噴火で泥流に埋もれた椎取神社の鳥居。