凡例三好 長慶
三好長慶像[注釈 1]
時代戦国時代
生誕大永2年2月13日(1522年3月10日)
死没永禄7年7月4日(1564年8月10日)[1]
改名千熊丸(幼名)、利長、範長、長慶
別名仙熊[2]、孫次郎(通称)、三筑
渾名:日本の副王
戒名聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門
墓所聚光院(京都市北区)
官位伊賀守、筑前守、従五位下、従四位下、修理大夫
幕府室町幕府摂津国守護代、御供衆→相伴衆
主君細川晴元→氏綱→足利義輝
氏族三好氏
父母父:三好元長、母:慶春院[注釈 2]
兄弟長慶、実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長、女(大西頼武室)、女(小笠原成助室)、女(塩田一閑
三好 長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津国守護代、相伴衆。
細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する[6]。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。 山城国下五郡守護代であった三好元長の嫡男で、永正3年(1506年)に細川澄元に属して阿波国より上洛した三好之長の曾孫。三好実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長の兄。正室は波多野秀忠の娘(波多野氏)、継室は遊佐長教の娘(遊佐氏)。 通称は孫次郎、官位は従四位下伊賀守、筑前守、後に修理大夫。史料では「三筑(=三好筑前守)」の略称で彼の名が多く残っている。諱の長慶は「ちょうけい」と呼ばれることもある。 大永2年(1522年)2月13日、細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市にある芝生城で生まれる。三好氏歴代の居館地と伝わる阿波国三好郡芝生(三野町芝生)では、生母・慶春院が長慶を孕んだ時に館の南の吉野川の瀬に立って天下の英雄の出生の大願をかけたという伝承がある。 父は細川晴元配下の重臣三好元長で、主君・晴元の敵であった細川高国を滅ぼした功労者であった。本国阿波だけでなく山城国にも勢力を誇っていたが、その勢威を恐れた晴元達及び一族の三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した一向一揆によって、享禄5年(1532年)6月に殺害された。当時10歳の長慶は両親と共に堺にいたが、一向一揆襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逼塞した[7]。 細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなり享禄・天文の乱となる。 そのため天文2年(1533年)6月20日に長慶は一向一揆と晴元の和睦を斡旋した。「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」(『本福寺明宗跡書』)とあり、当時12歳に過ぎない長慶こと千熊丸が和睦を周旋したというのである。交渉自体は仙熊の名を借りて、叔父の三好康長など代理の者がした可能性もある。 この直後に元服したとされる。理由は長慶の嫡男・三好義興や13代将軍・足利義輝、晴元の子の細川昭元などが11歳で元服しているためである。 千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した。ただし天文5年(1536年)11月の『鹿苑日録』では仙熊と記されているため、15歳までは世間ではまだ幼名で呼ばれていたようである[8]。 8月に本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、長慶は一揆と戦って摂津越水城を奪回した。翌天文3年(1534年)になると本願寺に味方して8月11日に細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄(尼崎市)で晴元方の三好政長と戦ったが、河内守護代でもあった木沢長政の仲介や、年少であるという理由から許されて晴元の下に帰参した。この後の10月22日、晴元の命令で長慶の家臣が京都平野神社の年貢等を横領しているのを止めて還付するようにされている。 その後は晴元の武将となり、天文5年(1536年)3月に細川晴国や本願寺武断派の下間頼盛らが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。この時は木沢長政の下に逃れ、長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍を7月29日までに全滅させた(『続応仁後記』)[9]。 三好政長は、高畠長信が京都を去った天文7年(1538年)以降京都支配に乗り出した。しかし、これに対し、三好元長の嫡男・長慶が、父の旧跡である京都に手を出されたことを不服とした。翌年1月14日、摂津国越水城にいた長慶は上洛し、翌日には細川晴元の幕府出仕の御供をしている。馬部隆弘は、この際に政長による京都支配に関する談合があり、幕府も政長の段銭賦課を快く思っていなかったとしている。結果として政長は天文8年(1539年)4月には丹波国に蟄居していることが確認されている[10]。 従来、天文8年(1539年)には政長と長慶とは河内十七箇所の代官職を巡って対立したと考えられていた。しかし、馬部隆弘の研究によってこれは否定された。長慶は前述の上洛の際、幕府から赤松晴政支援のための出兵を依頼されており、長慶配下の三好連盛
出自
生涯
出生・家督相続
若年期の活動「享禄・天文の乱」も参照
勢力拡大「越水城」、「太平寺の戦い」、および「舎利寺の戦い」も参照足利義晴像(古画類聚)