1942年、アイが再々婚した作詞家・佐藤惣之助が死去。それに伴い、1943年に達治は智恵子と離婚。1944年より福井県三国町(現・坂井市)でアイと暮らす。しかし翌1945年2月、アイが同棲開始から10ヶ月で東京へ逃げ帰り、別離する。(詳細は#達治と萩原アイと『天上の花』を参照のこと)
1953年 (昭和28年)に芸術院賞(『駱駝の瘤にまたがつて』、創元社)、1963年(昭和38年)に読売文学賞(『定本三好達治全詩集』、筑摩書房)を受賞。
1964年(昭和39年)、心筋梗塞に鬱血性肺炎を併発し、田園調布中央病院分院で死去。戒名は法治院平安日達居士[14]。弟の三好龍紳が住職を務めた大阪府高槻市の本澄寺に埋葬された。没後ほどなく、『三好達治全集』(全12巻、筑摩書房)の刊行が開始。
1964年、亡くなる5日前に書かれ絶筆となった詩「春の落葉」が雑誌『小説新潮』6月号で絶筆作として発表される。
1976年、十三回忌を記念し、本澄寺の境内の一角に遺族の手により三好達治記念館が建てられる。
2019年、福井県ふるさと文学館の学芸員が都内の達治の親族宅を訪ねた際に絶筆「春の落葉」の直筆原稿が見つかる。2020年、福井県が譲り受け、生誕120年に合わせ同文学館で展示される[15]。
評価
宇野千代は、他人から見える達治については「いつでも正気で端然としていて、節度を守っているよう」、達治の内面については「それと反対で、いつでも狂気で、節度を外し、惑溺するに任せていたのではないだろうか」とし、「その両面が、あの三好さんの高揚した詩になる」と分析した[16]。
中野孝次は達治を「俗にたいするはげしい嫌悪がある」が「それでいて決して世捨て人にならず」とし、「俗の中にいながら俗に泥(なず)まず心を碧落の高みに遊ばせることができるのが文人であろうけれど、三好達治は近代の詩人中最もそういう境地に遊ぶことのできた人であった」と評した[17]。
桑原武夫は戦後「三好達治君への手紙」という文章で、「自由をもたぬ日本人が戦争を歌ふとすれば、戦争は天変地異にほかならぬわけであり、自然詩となるのは当然である。(中略)したがつて君のみならず日本の詩人は、ヴィクトール・ユゴーのやうに、またアラゴンのやうに(「世界評論」にのつた嘉納君の断片訳をみたのみだが)戦争の内へ入つて、その悲惨と残忍を描きつゝ、なほかつそれらがより高きものの実現のためには不可避だとし、つまりその戦ひをよしとしてこれを歌ふことはできなかつた。」と評した[13]。
石原八束は「開戦当初の捷報がこの知識人一般をも狂わせたのである。達治の詩業にとってもこの詩集がその汚点となり無限の悔恨となったことは云うをまつまい」と指摘するとともに、軍隊経験のある達治が「国のために命を捧げている軍人」に対して「できるだけのことはしなければいけない、ということだったのではないでしょうか」と述べている[13]。だが、達治の「戦争詩」の一連は決して戦争への賛美ではない。「おんたまを故山に迎う」をはじめとする彼の詩を精読すれば、彼が国家主義者ではなく、亡くなった兵士ら一人ひとりへの敬意と追悼をうたう詩人であることは明らかだ。[独自研究?]
私生活
佐藤智恵子との結婚生活
桑原武夫は著書の中で、自身がフランス留学をしていた1937年からの2年間のうちに恐らく佐藤春夫と達治の関係が悪くなり、智恵子ともうまくいかなくなったとしている。そしてその頃の結婚生活について、「ある日、三好が縁側にすわって青空の白雲をながめている。すると奥さんが、もう月末はそこですよ、そんなにぼんやりしていないで、なにか書いたらどう、と言う。瞬間、三好の拳が智恵子さんの頭上にとぶのである」と記している[18]。
戦時中、長女の松子が達治の大声で目を覚ますと、灯火管制のため暗く灯された電燈の下で智恵子が叱られており、達治は「今夜は寝ないでよく考えてみなさい」と怒鳴っていた。それ以来松子の中で、達治は「こわい人」という印象が焼き付いてしまったという。松子の記憶にあるのはこの一回きりだったが、隣人の「おばさん」によると智恵子はよく怒鳴られていたとのことで、その理由を松子は「短気な父のわがままからのようであった」と振り返っている[19]。
達治と萩原アイと『天上の花』
萩原アイとの最初の出会いは1927年、達治27歳。翌年に婚約するも破棄となり、アイは佐藤惣之助と結婚。1934年に達治は佐藤智恵子と結婚し二児をもうけた。1942年に惣之助が死去したことにより達治は再びアイへ交際を求め、1944年5月18日に智恵子と協議離婚[20]。二児は智恵子が引き取った。同月30日よりアイと三国町で同棲を始めるが、翌年2月にはアイが逃げ出す形で別離した。結婚としての届出を行った記録は確認できず、岩波文庫の略年表には「同棲」と記されている[12]。
佐藤智恵子との協議離婚の際、達治に懇願された吉村正一郎と桑原武夫が法的な証人となった。しかしその直後に達治がアイと同棲を始めたことを、この二人は長い間知らなかった[12]。
達治の死後、アイとの同棲生活を題材にして、アイの姪(朔太郎の娘)の萩原葉子が小説『天上の花』(新潮社、1966年6月)を発表した。同書において、達治がアイ(作品内では「慶子」)を日常的に怒鳴ったり引っ叩いたり、時に流血し顔が腫れ上がるほど激しく殴打するなどのDVを行う描写がある。