三好達治
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また、達治の門下生で終戦後に三国町に移住した則武三雄の著作物や、同じく門下生で達治とアイの生活の世話をし、後に『三好達治』[21]や『詩人三好達治―越前三国のころ』[22]を著した畠中哲夫の日記と話が大きな構想となったことも明かしている[23]

桑原武夫は、アイが惣之助と結婚して以降「三好のはげしい思慕の対象であったが、」惣之助が死去したことで「三好はこの宿命的な恋にいわば突撃したようにみえる」とし、「その外的経過のおおよそは、萩原葉子の小説『天上の花』に、おそらくいささかの誇張をこめて描かれたとおりと思われる。その事実のせんさくの必要はないだろう。」と結論付けた上で、『花筐』がアイに捧げられた詩であったという石原八束の説を支持し、「それに人びとは気づかなかった。それほど三好の詩は抑制がきいている。あるいはエステティック・ディスタンスが保たれている。」と評価している[24]

アイが達治に従って三国町へ行ったのは、アイが相続できるのは家一軒のみとした裏切りのような惣之助の遺言に対するショックと、戦争の激化による食料の欠乏から、頼れるのは達治だけと考えたからであると『天上の花』文庫収録の作家案内(木谷喜美枝 著)では記載されている[25]

朔太郎には妹が4人いて、郷土前橋では聞こえた美人だった。朔太郎より18歳下の末の妹・アイは、姉たちとは違って華やかなタイプの美女だがわがままで、23歳で2度の離婚を経験し、朔太郎夫婦の元で暮らしていた[10]

戦後の生活

東京都世田谷区代田一ノ三?三岩沢方に移り、終生そこを離れなかった」[26]。 (番地は旧番地)

世田谷区の自宅に萩原葉子が来訪し再会する。以降、萩原家に迫害されていた葉子に印税の半分がわたるように達治が奔走したというエピソードが『天上の花』及び『閉ざされた庭』(新潮社、1984年2月)に記されている。

作詞

三国町に居住した縁からのちに「
福井県民歌」や福井県立大野高等学校校歌福井県立三国高等学校校歌の作詞に関わった。この他、東京工業大学学歌、神奈川県立横須賀高等学校校歌、静岡県立浜名高等学校校歌、仙北市立角館中学校校歌、大和紡社歌等多数の歌の作詞に関わった。

達治が作詞した歌はほとんどが諸井三郎によって作曲されたものである。

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出典検索?: "三好達治" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年11月)


陸軍幼年学校および士官学校に在籍した経歴もあり剣道に長け、三島由紀夫は「文壇最強」と称したという。

佐藤春夫とは仲が悪く、三好が佐藤の家の前で「バカヤロウ」と怒鳴り走り去るとすぐさま佐藤も三好の家の前へ行き「バカヤロウ」と怒鳴り返したとのエピソードも伝わる。ただお互い詩の才能は認めていた。

中谷孝雄は佐藤の弟子で三好達治の友人だったことから喧嘩の板挟みにされていた。佐藤が中谷に三好のことを聞いた時、佐藤が「自分のところには菊を寄越したよ。」と言ったエピソードがある。この言葉は当時流行っていた太平洋行進曲の歌詞とかけた洒落で仲直りをしたわけではない。

主な著書

十数冊の詩集の他に、詩歌の手引書として『詩を読む人のために』、随筆集『路傍の花』『月の十日』などがある。また中国文学者吉川幸次郎共著『新唐詩選』(岩波新書 青版、初版1952年、後編を担当)は半世紀を越え、絶えず重版されている。

※「詩集」は、岩波文庫・新潮文庫・ハルキ文庫・新書版の思潮社現代詩文庫」で刊行。
詩集

測量船』(第一書房、1930年) のち講談社文芸文庫

『南窗集』(椎の木社、1932年)

『濶ヤ集』(四季社、1934年)

『山果集』(四季社、1935年)

『霾』(合本詩集『春の岬』(創元社、1939年)所収)

『艸千里』(四季社、1939年)

『一點鐘』(創元社、1941年)

『捷報いたる』(スタイル社、1942年)

『覇旅十歳』(臼井書房、1942年)

『寒柝』(大阪創元社、1943年)

『朝菜集』(青磁社、1943年)

『花筐』(青磁社、1944年)

『干戈永言』(青磁社、1945年)

『春の旅人』(三好達治詩集頒布の会、1945年)

『故郷の花』(大阪創元社、1946年)


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