三國連太郎
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その後、旧制豆陽中学(その後の静岡県立下田北高等学校、2008年に静岡県立下田南高等学校と統合し、現在は静岡県立下田高等学校)を2年で中退するまで土肥町(現在の伊豆市)で育った[8][9]

中学時代は水泳部で活動したが、2年生で退学した。これより父親の怒りを買ってしまい、暴力から逃れるため下田港から密航を企て青島へ渡った。その後釜山で弁当売りをし、帰国後には大阪で皿洗い、ペンキ塗り、旋盤工などさまざまな職に就く[2][10]
徴兵、終戦まで

1943年(昭和18年)12月、20歳のとき大阪で働いていたが、徴兵検査の通知が来て故郷の伊豆へ戻り、甲種合格後、実家へ戻った[11]。すると「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ」という母の手紙が来た。三國は、「戦争に行きたくない。戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。何とか逃げよう」と考え、同居していた女性とすぐに郷里の静岡県とは反対の西へ向かう貨物列車に潜り込んで逃亡を図った。逃亡4日目に列車を乗り継いで山口県まで来たとき、母に「ぼくは逃げる。どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書いた。親や弟、妹に迷惑がかかることを詫び、九州から朝鮮を経て中国へ行くことも書きそえた。数日後、佐賀県呼子で船の段取りをつけていたところで憲兵に捕まり連れ戻された[10][12]

処罰は受けず、皆と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の歩兵第34連隊に入れられた[13]

中国へ出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、母親が家のために黙って戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知る。家族が村八分になるのを恐れ涙を呑んでの決断だったという[10]。中国の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土を踏めたのは20人から30人にすぎなかった。戦地へ向かう途中、身体を壊し熱病にかかる。10日間意識不明になり、死んだものだと思われ、工場の隅でむしろをかぶせられて放置されていたが、焼き場に運ばれ、いざ焼く番になってむしろをはがしたら目を覚ましたという。漢口の兵器勤務課に配属され、この部隊で終戦を迎えた[2][14]。なお、三國自身は銃を一発も撃つことはなかったという[15]
戦後

1945年(昭和20年)の敗戦時、収容所に入れられ、独自に作った化粧品などを売って過ごした。中国からの復員の際に、妻帯者は早く帰国できるということで、同じ佐藤姓の女性と1946年(昭和21年)4月に偽装結婚し、同年6月に引き揚げ[2]。復員時に長崎県佐世保市から鉄道広島駅へ達した際には、駅から四国が望まれ、原子爆弾の脅威を知る[12][13][16][17]。その後は多種多様な職業につく[18]宮崎県宮崎市の妻の実家に身を寄せて宮崎交通に入社、バス整備士として2年勤務[2]

1948年(昭和23年)、女児を身籠もっていた妻と離婚して鳥取県倉吉へ行く[2]。近くの三朝温泉へ行ったとき、戦争中に満蒙開拓団に関係していた人と知り合いになり、その紹介で県農業会(のちの農業協同組合)に入り[13][19]、組合長の秘書を務めながら農村工業課を新設[2]サツマイモ澱粉からグルコースを採取する作業を指導する[19]。まもなく土地の資産家の娘と再婚[2]
上京して映画界入り

1950年(昭和25年)、単身上京して福島県福島市を拠点に闇商売を始め、一時は大儲けするが結果的に挫折する[2]

同年12月[2]東銀座を歩いていたところ松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入る[19]。スカウト時には、プロデューサーの「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」との言葉に、「電車代と飯代を出してくれるなら」と答えたと述懐している[20]。またこの映画界入りの背景は偶然ではなく、東銀座でのスカウトの際、松竹の「あなたの推薦するスター募集」に、倉吉時代に出入りしていた写真館の主人が三國の写真を送っていたことを知る[2]

1951年(昭和26年)、木下恵介の監督映画『善魔』に、レッドパージで出演取り止めとなった岡田英次の代役として松山善三の推薦により抜擢されデビュー[1]、役名の「三國連太郎」を芸名にする[2]。この演技により第2回ブルーリボン新人賞を受賞する。デビュー当時、松竹が紹介した経歴は、本名、生年月日、身長、体重を除いてほとんどが嘘だらけだったが、それもまた役者の象徴として平然と聞き流すのに対して、木下は俳優としての本質的な良さを認め、三國もその資質を活かすことにつとめる[2]。また、木下の勧めで3か月ほど俳優座に通った。

1952年(昭和27年)1月、東宝稲垣浩の監督作品『戦国無頼』への出演を希望し松竹に出演許可を求めるが、三國がまだ演技研究生で松竹社員であることを理由に拒否される[2]。しかし東宝は松竹の間に正式契約がないことを確認して本人と交渉を進め、三國を巡る松竹・東宝の争奪戦がマスコミの話題となる[2]。三國が自ら『戦国無頼』のクランクインに参加したため、松竹は3月19日、正式に解雇する[2]。三國は出演ののち、東宝と年間4本の出演契約を結んだ[2]。これらの一件を通じて、義理人情を欠く「アプレ・スター」と叩かれた[2]

この間に2度目の離婚。翌1953年(昭和28年)に3度目の結婚をしている[2]

1954年(昭和29年)、稲垣監督『宮本武蔵』出演中に映画製作を再開した日活の『泥だらけの青春』に出演すると発表、東宝が折れ出演を果たす[2]。その直後、「五社協定違反者第1号」に指定される[2]


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